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湖北省荊州市 ~ 人口 576万人、 一人当たり GDP 14,500 元


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  江陵県城(【二代目】南郡城、荊州府城)
  郢県城(春秋戦国時代の楚の王都:郢を改修、【初代】南郡城)
  公安県城



【 荊州市の歴史 】

荊州エリアでは、すでに5000~6000年前における人類の生息が確認されており、大溪文化などの古代文明が開花されていたという。

そもそも荊州の地名は、高く急峻な山々が脈々と続く荊山に由来し、この山麓が春秋戦国時代の大国・楚の発祥の地とされる。当地で発達した文化は楚文化として知られ、楚国は別称で荊国とも通称されてきた。
古くから、今の江陵県の一帯(荊州市南部)は長江沿いの水運交易都市として、大いに発展を遂げていたという。

紀元前689年、楚国の文王は王都を郢(今の荊州市荊州区郢城村)へ遷都し、 以後、400年余りにわたり、楚の首都として君臨していくこととなる。下地図。
さらに、楚の平王(在位:紀元前528年~前516年)により、 呉国からの攻撃を避けるべく、その城壁はより強固に改修されていた。

荊州市

紀元前278年には、 秦国の大将軍である白起が楚へ侵入し、王都の郢を占領する。このとき、秦により南郡が新設され、 この旧王都跡は郢県城に転用され、南郡役所が併設される。今の荊州市一帯は、同時に新設された 江陵県(南郡に帰属)の管轄下に置かれた。

荊州市

その秦朝も紀元前206年に楚王の項羽により滅ぼされ、項羽は自身の部下であった共敖を臨江王に封じる。共敖は江陵県城にその王都を構えた。間もなく共敖が死去し、その子の共尉が後を継ぐ。下地図。

しかし、紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討ちとった劉邦は、さらに江南地方の平定戦を展開し、劉賈と太尉の盧綰を派遣して、共尉を攻め滅ぼし、臨江国は廃止され、再び南郡が復活設置される(江陵県城が郡都となる)。

荊州市

前漢第三代皇帝の景帝(劉啓)は、その子の劉閼と劉榮を江陵へ派遣し、臨江王に封じる。しかし、劉閼と劉榮の死にともない、すぐに臨江国は廃止され、再び、南郡へ戻された。

前漢第七代皇帝の武帝の治世下の紀元前106年、荊州刺史部が新設される。以後、南郡は荊州の管轄下に帰属された。
後漢時代には郢県が廃止され、江陵県へ吸収合併される。ここに、郢県城は完全に廃城となる。

荊州市

三国時代に入り、魏、蜀、呉の3か国が荊州の地を分割するも、後に荊州全土が呉の領土下に組み込まれる。呉は荊州役所を南郡の郡都である江陵県城内に開設した。上地図。

西晋、東晋時代もこの体制が継承される。東晋朝のころ、江陵県下には、雲中県、九原県、定襄県、宕渠県、広牧県、新豊県の6県と、新興郡が配されていた。このころから、特に江陵県城は荊州城と同義に通称されるようになったという。
南北朝時代の斉、帝、梁、後梁などの王朝が、一時期、この荊州南郡の中心都市「江陵県城」にその王都を構えている。

南北朝時代末期に中原の再統一へ邁進する隋により、すでに属国化していた後梁も併合され、江陵城内に江陵総管(後に荊州総管へ改称)が開設される。二代目皇帝の煬帝の治世下には、荊州総管は南郡へ再変更される。

唐代初期の627年に山南道の帰属となるも、733年には山南道が東西に分割され、以後、山南東道下の江陵府となる。後に荊州大都督府へ、さらに荊南節度使へ改編される。

荊州市

唐末期の混乱をきっかけに始まった五代十国時代、荊南節度使の高季興がこのエリアに勢力を有し、荊州、歸州、峡州の3州を統治した。
高季興は924年に恭順した後唐から南平王に封じられ、その王都を江陵県城内に開設する。最終的に荊南国は北宋に降伏し、963年に滅亡する。

時は下って、元朝末期の1364年、モンゴル勢力を北へ駆逐する中、朱元璋により中興路が荊州府へ改名される(湖広行省に所属)。 府役所はやはり江陵県城内に併設された。明代初期の1376年、湖広行省が湖広承宣布政使司へ、荊州府が河南布政司へ改編されるも、 1391年には荊州府は再び、湖広布政使司の管轄下に組み込まれた。

清代の1670年、上荊南道(1735年に荊宜施道へ、1904年には荊宜道へ改名)が開設され、道役所が荊州府内に併設された。

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