BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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浙江省 金華市 ~ 人口 475万人、 一人当たり GDP 65,000 元


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  長山県城(東陽郡城、金華県城、金華郡城、婺州城、寧越府城、金華府城)
  烏傷県城(義烏県城)
  永康県城
  呉寧県城(東陽県城)
  豊安県城(浦江県城)
  湯溪県城



【 金華市の 歴史 】

春秋時代には越国の版図下にあったが、戦国時代中期の紀元前 334年、越国を破り壊滅させた楚国がこの地を領有するようになる。最終的にはその楚国も紀元前 223年に秦国により滅亡に追い込まれる。

秦代、前漢代を通じて、金華市エリアは 会稽郡(郡都は 今の紹興市)下の 烏傷県(今の 義烏県中心部)の管轄とされた。
後漢代になって、今の金華市中心部に長山県城が新設される。

金華市

三国時代末期の 266年、会稽郡の西部が分割され、東陽郡(郡役所は 長山県城内に開設)が新設される。なお、この東陽郡の由来であるが、瀫水(今の 衢江)の東側に位置し、しかも長山の 南側(陰陽の陽)にあったことから命名されたという。東陽郡の管轄下には、長山県(今の 婺城区、金東区、蘭溪県)、烏傷県(今の義烏県)、永康県、呉寧県(今の東陽県)、豊安県(今の浦江県)、太末県(今の龍游県)、新安県(今の 柯城区、衢江区)、定陽県(今の常山県)、平昌県(今の遂昌県)の 9県が置かれた。
東西晋朝の治世下でも、この行政区が踏襲される。


南朝の梁の統治下の 556年、縉州が新設される。続いて南朝を制した陳の治世下の 562年、縉州が廃止され、東陽郡が金華郡へと改名される。この「金華」の地名であるが、「金星と七夕伝説に登場する仙女の一人の 織姫(婺女星)との間で 美(華やかさ)を競い合った場所」という意味から命名されたという。

隋代の 593年、金華郡が婺州へ改称される。そして、607年に再び、東陽郡へ戻された。

唐代の 621年、婺州へ再改名され(一時期、東陽郡へ戻される)、さらに龍游県(かつての 太末県)が婺州から分割され、新設された衢州(今の 衢州市)へ移籍される。
五代十国時代、および、宋朝時代も、この行政区が継承された(下地図は南宋時代のもの)。

金華市

元代の 1276年、婺州路へ改編される。元朝末期の 1358年には、朱元璋により婺州路が軍事制圧され、寧越府へと改称される(最終的に 1360年、金華府へ再変更)。

明代中期の 1472年に 遂昌県、金華県、蘭溪県、龍游県の一部ずつが分割され、湯溪県が新設される。以降、金華府は 金華県、蘭溪県、東陽県、義烏県、永康県、武義県、浦江県、湯溪県の 8県を統括することとなり、「八婺」と通称されることとなる。

金華市

金華市

時は下って、中華民国初年度の 1912年に全国的に府制が廃止され、金華府は金華県へ降格されるも、1914年には金華道が新設され、かつての金華府一帯と衢州および、厳州府が占めた管轄域を全て統括することとされた。
1927年に、蒋介石の率いる北伐軍が浙江省一帯も平定すると、道制が廃止され、各県は同列に浙江省の監督下に置かれた。

金華市

なお、金華市 中心部(婺城区)にあった 長山県城(東陽郡城、金華県城、金華府城)跡であるが、後漢時代に設置されて以降、この地方一帯の 政治、経済、文化の中心都市であり続けた。しかし今日、その栄光ある城郭都市が有した城壁や城門はすべて撤去されてしまっている。わずかに残る路地名や地名から古の栄華を感じ取る他ない状態であった。環城西路、環城北路、環城東路、東荷街、東市街小学、水門巷、西市街、馬路里 など。

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