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山東省済寧市 ~ 人口 815万人、 一人当たり GDP 39,000 元


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  済寧県城(【2代目】任城県城、【2代目】済州、済寧府城、済寧州城)
  滋陽県城(瑕県城、兗州城、兗州府城)
  【初代】任城県城(任城郡城)
  亢父県城(亢父邑城)  後漢末の189年に、荀彧が県長官を務める
  魯県城(魯郡城)
  方与県(魚台県城)



【 済寧市の歴史 】

夏王朝の時代、済寧市一帯は仍国の勢力圏下に組み込まれた(下地図)。 仍国の王族である有仍氏(別称:有任氏)は、五帝の一人である太昊(伏羲)の末裔とされる。

済寧市

商(殷)朝時代にも、引き続き、仍国が存続されたが、相対的にその勢力は縮小され、周囲には奄国、厥国、卞明国などの封国が設置された。
特に、奄の地は、商朝の第17代君主・南庚(在位は紀元前1433~前1409年?)により、王城が遷都され(下地図)、第19代君主の盤庚が王都をさらに殷の地へ移転するまで、中華帝国の王都として栄えた場所であるが、王都転出後は奄国が新設され、その王都が入居した。

済寧市

西周時代には、任国(仍国王が西周王朝に帰参したため、封国の一つに組み込まれる)、厥国、邾国、極国、茅国、魯国が割拠した。
特に、周国の武王が商(殷)王朝を滅ぼし、西周王朝を建国した当時、その実弟である周公旦を奄の地に封じ(周公旦を始祖とする魯国の成立)、東部一帯の統治を委ねたことから、当初より魯国の影響力は強大であった。

東周朝時代も引き続き、済寧市エリアは任国の版図下に組み込まれるも、その軍事力は自立するには乏しく、春秋時代期も引き続き、魯国の影響下に服することとなる(下地図)。

済寧市

紀元前249年、魯国が楚国に滅ぼされる。
戦国時代期、一帯には封国として茅国、極国、鄒国、方与国、胡陵国などが未だ健在ではあったが、楚国や斉国の半属国として組み込まれる状態であった。任国もまた、当初は宋国に、後に斉国に帰順して、何とか命脈を保つだけであった。

秦の始皇帝が中原を統一すると、ついに任国は廃止され、任城県(今の済寧市微山県魯橋鎮)と亢父県(現在の済寧市任城区喻屯鎮城後村~張橋村の一帯に亢父古城跡が現存する)、方与県(今の済寧市魚台県の西部)が新設される。また、魯県城(今の済寧市曲阜市)を郡都とする魯郡が設置された。

前漢朝の第6代皇帝・景帝の知世時代(紀元前144年)、新設された済東国の統治下に組み込まれる。
続く第7代皇帝の武帝の治世下の紀元前116年、済東国が大河郡へ改編され、さらに宣帝(第9代皇帝)の知世時代の紀元前52年には東平国へ再編される(下地図)。

なお、前漢朝は中央集権統治体制を強化すべく、全国を14州に区分けする。このとき初めて、兗州が新設された。州役所は濮陽県城に併設され、山陽郡(瑕丘県、橐県、方与県など)、東郡、陳留郡、済陽郡、泰山郡、東平国(任城県、亢父県など)の6郡・侯国を統括した。下地図。

済寧市

後漢時代も、引き続き、東平国の版図下に置かれた。上地図。
第3代皇帝の章帝の知世時代の84年、東平国から任城国(今の済寧市微山県魯橋鎮)が分離・新設される。下地図。また同時に、魯国も復活設置された。

済寧市

後漢末の189年、中央朝廷内にあって、董卓の暴政から逃避すべく、荀彧は地方の亢父県(今の済寧市任城区喻屯鎮城後村)の長官職を志願し、これに就任している。その後、袁紹の元へ帰参し、最終的に191年に曹操の幕閣に参与することとなる。

三国時代期の223年、魏の文帝(曹丕)により、任城国が任城郡(今の済寧市微山県魯橋鎮)へ降格される。また、山陽郡と魯郡も同様に郡制に戻される。上地図。

西晋朝の時代、済寧市エリアには、任城国(一時期、南平陽侯国と改名されていた)と、東平国(山陽郡から昇格。王都は昌邑県城)、魯国が設置されていた。

南北朝時代には、後趙、前燕、前秦、後燕など為政者が目まぐるしく変遷するも、一帯はそのまま任城郡と魯郡、東平郡に統括された。下地図。

済寧市

宋朝の治世時代の420年、任城郡が廃止され、東平郡下の亢父県(今の済寧市任城区喻屯鎮城後村)に吸収合併される。
北魏時代の518年に、再び任城郡が復活・設置される。このとき任城県城が、現在の済寧市任城区の中心部に新たに築城されることとなる。
北斉朝の治世時代の556年、亢父県(今の済寧市任城区喻屯鎮城後村)が廃止され、任城県に吸収合併される。

隋代もそのまま、東平郡(郡下には鄆城県、鄄城県、須昌県、宿城県、雷澤県、鉅野県の6県を管轄)と魯郡(郡下には瑕邱県【今の山東省済寧市兗州区】、任城県、騶県、曲阜県、泗水県、平陸県、龔邱県、梁父県、博城県、嬴県の10県を統括)が踏襲された。

済寧市

唐代には、魯郡のみとなり、後に済州へ、さらに済陽郡へ、最終的に泰寧軍へと変更が加えられた。この時代、魯郡(郡都は巨野県城)の東部最大の都市として任城県城(今の済寧市任城区)は繁栄を極め、長江下流域一帯を放浪していた若き李白が他の詩人らと交友を深めつつ、当地でその実力を養成したのも、この頃とされる(725~735年ごろ)。上地図。
現在でも、済寧市内には李白の足跡を偲ばせる太白楼と浣笔泉が現存している。

五代十国時代の後周朝の知世下の952年、泰寧軍が済州(州都は巨野県城)へ戻される。そのまま、巨野県(今の菏澤市巨野県)と任城県(今の済寧市任城区)はここに帰属された(下地図)。

済寧市

北宋時代、当初は済陽郡(郡都は巨野県城)であったが、後に済州へ戻される。上地図。
1118年、兗州が襲慶府へ昇格される。

金代の1150年、済州の州役所が、大洪水の被害を受けた巨野県城(今の菏澤市巨野県)から任城県城(今の済寧市任城区)へ移転される。

元代の1271年、済州が済寧府(水害リスクの少ない高台に位置した地の利から、その安寧が祈願され、「済寧」と命名されたという)へ昇格される。以降、任城県城は済寧城とも通称されることとなる。
1279年にはさらに済寧路へ改編され、総管府を有することとなる。管轄下には3州と7県が配された。
元代に大開発された運河が、隋代の京杭大運河から東部へ移動し、済寧府(今の済寧市任城区)を通過することとなると、南北の交易の中継地点として大いに開発が進められ、元末にかけてその栄華は最高潮に達する。下地図。

済寧市

明代の1368年、済寧路が済寧府へ変更される。府都はそのまま済寧県城(任城県城)とされ、3州と12県を統括した。
1385年に、済寧府が済寧州へ降格されると、その下には3県(嘉祥県、巨野県、鄆城県)のみ配された。同時に、兗州が兗州府(滋陽県城【今の済寧市兗州区】が府都を兼務)へ昇格され、27の州と県城を管轄した。下地図。

明代から清代を通じ、済寧州(今の済寧市任城区)の経済発展はますます進み、京杭運河沿いの七大中継都市の一つとしてその地位を確立し、「江北地方の小蘇州」の異名を取るまでに成長する。当時、淮安、臨清と並び、京杭運河の三大名鎮として全国にその名を轟かせたという。上地図。

済寧市

済寧市

清代の1724年、済寧州が直隷州へ昇格されるも、そのまま配下には3県のみ統括することとされた。
1730年には直隷州から散州(配下に県城を有しない単体州)へ降格される。
1776年、再び直隷州へ再昇格されると、配下に別の3県(金郷県、嘉祥県、魚台県【今の済寧市魚台県の西部】)があてがわれた。上地図。
この時代の兗州府下には10県が配され、兗州府と済寧直隷州は共に兗沂曹済道に帰属された。

中華民国が1912年に建国されると、翌1913年、済寧直隷州が済寧県(今の済寧市任城区)へ降格される。1913年には岱南道の、さらに1914年6月には済寧道(配下に25県を統括)の道都となるも、最終的に1925年に道制は完全廃止されるに至る。


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