BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山西省 晋中市 ~ 人口 440万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  祁県(有祁県城)
  介休県城(涂水県城、界休県城、界美県城)
  鄔県城
  涂水県城
  寿陽県城(馬首県城)
  楽平県城(白狄族の肥国王都跡、楽平郡城、遼州城)
  郷県城(郷郡城)



【 晋中市の 歴史 】

晋中市一帯では、今から約 3万年前の旧石器時代後期に、すでに人類の生息が確認されているという。
商(殷)王朝時代(紀元前 17~前 11世紀)後期には、晋中市エリア内でも 城邑(城塞都市)が設置された。西周朝の時代、唐国の版図下に組み込まれる。

春秋時代期、今の晋中市一帯には 有祁県(今の 晋中市祁県)、鄔県(今の 晋中市介休市)、涂水県(今の 介休市)、馬首県(今の 晋中市寿陽県)の 4県が設置され、晋国の統治下に置かれた。また市域の東部は、白狄族が建国した 肥国(今の 晋中市昔陽県)の領土下に組み込まれていた。下地図。

晋中市

戦国時代には、 晋国を滅ぼし独立した 韓、趙、魏の 3国に分かれて統治された。

戦国時代も末期となると、西の秦国が強大化し、韓、趙、魏の領土を圧迫するようになる。紀元前 246年、秦の庄襄王により白起が派遣され、黄河流域から北部一帯が秦国に併合されることとなる。下地図。

この直後、太原郡が新設される。その郡役所は 晋陽城(今の 太原市南西の汾水の東岸側)に開設され、晋陽県、界休県(今の 晋中市介休市)、鄔県(今の 晋中市介休市の北東 15 km)、兹氏県(今の 山西省呂梁市汾陽市巩村にある古城遺跡)、离石県、榆次県、霍人県(山西省忻州市繁峙県の東部)の 7県を統括した。

晋中市 晋中市

秦の始皇帝が中原を統一すると、太原郡と上党郡の 2郡体制となり、現在の晋中市域は二分して統括された。

時は下って後漢時代、并州下の 太原郡(前漢時代の管轄 21県体制から 16県体制へ縮小された)、上党郡、楽平郡(郡役所は昔陽県に開設)の 3郡に分かれて帰属されていた。
後漢末期、北方の 鮮卑族、匈奴らの南下もあり、漢民族の多くが南へ大挙して移住するようになる。こうして、213年に并州が廃止され、冀州へ吸収合併される。この直後より、曹操による匈奴討伐戦が展開されていくこととなる。

220年に 曹丕(文帝)が後漢朝からの権力禅譲を受け、魏国を建国すると、すぐに并州が復活設置される。一方で、太原郡は 12県体制に縮小された。すなわち、晋陽県(并州役所と太原郡役所を併設)、陽曲県、榆次県、盂県、祁県、京陵県、中都県、大陵県、平陶県、狼孟県、陽邑県、鄔県となった。

なお、このとき、晋中市一帯は 太原郡、上党郡、西河郡(郡役所は離石県城に開設)、楽平郡(219年に新設。郡役所は 楽平県城【今の 山西省晋中市昔陽県巴洲郷巴洲村】に開設され、沾県【今の 昔陽県中心部】を含む 2県を統括した。)の 4郡に分かれて監督されている。下地図。

晋中市

その魏朝から権力禅譲され、司馬炎により西晋朝が建国された 265年、太原郡が太原国へ変更され、司馬孚の子の司馬瑰が太原王に封じられる(284年に廃止され、太原郡に戻される)。
なお曹魏時代から、楽平県城(今の 晋中市昔陽県巴州村)を中心とする楽平郡には、青州騎兵団という対北方民族戦用の主力が駐屯されていた。

しかし、間もなく西晋朝廷内で内部抗争が勃発し、中央の統制力が弱体化したことを受け、北方の鮮卑族、匈奴らがますます南下し、その勢力圏を拡大することとなる。 最終的に 316年、前趙により西晋朝も滅ぼされ、南北朝時代が始まることとなった。下地図。


晋中市

北朝側での五胡十六国時代を制して、北魏が華北地方を統一すると、今の晋中市エリアは、并州下の 太原郡(郡役所は晋陽県城に開設)、そして、郷郡(433年に新設。郡役所は当初、郷県城【今の 晋中市榆社県社城鎮】に開設。郷県、陽城県、襄垣県、銅鞮県の 4県を統括。後に郡役所は、陽城県城【今の 長治市武郷県故県郷甲水村】へ移転)、楽平郡、 上党郡と汾州下の 西河郡(郡役所は 今の臨汾市吉県に開設)に細分化され統括された。下地図。

その後、この行政区は東魏や北斉の統治下でも継承されることとなる。

晋中市

南北朝時代を統一した隋代、当初は郡制が廃止され州制が採用されると、并州、介州、韓州、遼州(596年に新設され、州役所は今の 晋中市昔陽県に開設)、呂州の 5州に分かれて統括された。後に 2代目皇帝・煬帝により、郡制が復活されると、太原郡と 西河郡(介州から改編)の 2郡の管轄区に再編される。
後に、太原郡、介休郡、霍山郡の 3郡体制へ変更された。

唐代に入り、さらなる行政区の改編が加えられ、最終的に、太原府(榆次県、太谷県、祁県、寿陽県)と、汾州(平遥県、介休県、霊石県)と 遼州(楽平県、和順県、榆社県)の 2州によって統括されることとなる。

晋中市

北宋時代には、河東路太原府、汾州、遼州、平定軍に分かれて管轄された。その後、東北から侵入した金国の勢力圏に組み込まれる。

元代、冀寧路と晋寧路に分かれて属された。
明代、清代には、太原府(上地図)、汾州府、平陽府の 3府と 遼州、平定州、霍州の 3直隷州に細分化され統括された。

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