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遼寧省錦州市 ~ 人口 313万人、 一人当たり GDP 41,000 元


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  錦州城(錦州府城)



【 錦州市の歴史 】

錦州市一帯は新石器時代から人類の生息が確認されており、その歴史は長い。
夏王朝~商~周王朝時代、原始的な奴隷社会が続けられており、中原の漢民族からは野蛮地域に分類されていた。
春秋戦国時代、燕国の支配下に入る。戦国時代においては、戦国の七雄であった燕国が引き続き、この地方を領有し、遼西郡を設置している。

秦王朝、前漢王朝の時代、遼西郡は大凌河の左右に二分割され、遼東郡が新設される(郡役所は襄平―今の遼陽市に設置)も、錦州市一帯は引き続き、遼西郡に帰属。後漢時代においても、遼西郡に帰属していたが、三国時代に入って、幽州の昌黎郡(遼西郡の一部が分割された)に属した。魏より権力を禅譲された西晋王朝は幽州を平州へと改名している。

北魏、東魏、北斉王朝時代、営州の管轄下にあったが、隋朝成立後、錦州市西部は柳城(今の朝陽市)郡に、東部は燕郡に帰属した。唐代初期に、営州(今の朝陽市)総管府の管轄下とされたが、後に安東都護府が統括することになった。安東都護府が廃止された後は、平戸節度使の下に帰属された。
契丹民族により建国された遼王朝の時代、錦州市一帯は中京道と東京道に分かれて帰属された。この時代、916年に遼国初代皇帝に就いた耶律阿保機の「漢族を戦利品として錦の州を建てる」という言葉を取って、錦州という地名が誕生している。
女真族の金王朝の時代、道制から路制へ改編・改名され、北京路の管轄下に入る。
金王朝を滅ぼした元王朝により、さらに分割され、この地域一帯は大寧路と広寧府路に帰属されることになった(その上に遼陽行中書省が統括部署として設置される)。
明朝時代になると、さらに行政制度が改編され、軍衛制の下、衛所が全国に設置されていった。この地域の場合、広寧衛が置かれ、広寧前屯衛、広寧後屯衛、広寧左屯衛、広寧右屯衛、広寧中屯衛(ここに今の錦州市が帰属する)がその下に配置された。広寧衛は後に、義州衛や寧遠衛へと改名されている。さらに、これら中国東北部を管轄する中央官庁として遼東都指揮使司、後に遼東巡撫部が置かれた。明末、台頭する女真族の後金国は明領の遼東地区へ攻勢をかけ、度々、両者の間で攻防戦が繰り広げられることになる。

錦州市

1616年、女真族ヌルハチは女真族諸族を武力で統合し、後金国を建国して、明からの独立を宣言する。王都は、1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(興京)に開設された。
1618年、後金のヌルハチは「七大恨」を掲げて明に対し挙兵する。遼東地区の明の拠点を次々に攻撃し、翌1619年、王都ヘトゥアラに向けて派遣された明の大軍をサルフの戦いで殲滅すると、1621年には明の遼東支配の拠点であった遼陽と瀋陽を攻略し、王都を遼陽へ遷都する。1625年には、さらに遼陽から瀋陽(盛京)に遷都している。このころには、ヌルハチの後金王朝の勢力圏は遼河の東方全域に及ぶまでに拡大した。
翌1626年、ヌルハチは大軍を率いて遼河を越え、山海関へ向けて親征する。このとき、広寧左屯衛と広寧中屯衛が設置されていた錦州城も陥落させることに成功している。続いて、寧遠衛が置かれた興城へと進軍するも、西洋式の大砲を擁する袁崇煥の守備軍に敗れる。このときの負傷がもとで、ヌルハチは死去することになった。
ヌルハチの死後、後継者ホンタイジは山海関突破を諦め、西側の内モンゴル地区を制圧し、東は朝鮮を服属させることで勢力をさらに拡大させた。1636年に国号を大清に改名する。明が内乱と農民反乱で自滅するのを待って、1644年、中原に進出し、北京にて清王朝を建国するに至る。
1661年、明代より継承した広寧中屯衛と広寧左屯衛、および広寧右屯衛の3部署をあわせて、この地に錦県が開設された。1663年には、広寧府が新設され、その翌年に錦州府へと改名され、以後、近代まで続くことになる。
中華民国の成立後、初期は奉天省遼瀋道に帰属されるも、1929年には遼寧省の管轄下となった。

錦州市

なお、この錦州古城であるが、南と西側は河を背にした設計となっており、貝殻型の城郭都市であったようである。ここはヌルハチ率いる後金軍と、明の守備兵が攻防戦を繰り広げた場所であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみであった。北街、南街、東街、北門口郵便局、南門医院、古城新苑農貿市場。


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