BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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甘粛省 酒泉市 ~ 人口 110万人、 一人当たり GDP 53,000 元


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  酒泉県城(禄福県城)



【 酒泉市の 歴史 】

古代より、西域・北方民族の西戎や 西羌、匈奴の領域で、中原王朝とは異なる世界と考えられてきた地方である。 現在の甘粛省の中でも最も大きな市域を有しており、そのほとんどは遊牧地、砂漠地帯である。
黄河上流域にあたるこの地では、月氏王国が勢力を張っていたが、中原にて秦王朝が建国されたころ、 当時、まだまだ弱小勢力であった匈奴が台頭し出し、月氏の勢力は南西部へと大きく後退されることになる。
秦末から楚漢戦争時代にかけて、北方民族の匈奴は度々中原へ南下し、中国本土をも脅かす ほどの勢力へと成長する。南西部へ追われた月氏王国であるが、紀元前 176年、匈奴の圧力は ますます強まり、イシク湖周辺にまで追われていく。月氏の残党(大月氏)は、もともと、この地方に あった塞族による民族国家を攻め滅ぼし、ここに大月氏王国を建国して、その命脈を保つことに成功する。
他方、月氏から分かれて 南山羌、敦煌、祁連(現在の 青海省)一帯に留まった月氏の一部は、小月氏王国として 細々と存続していくことになる。後漢末から三国時代においても、西域の一民族国家として、 この小月氏王国が認知されていたというから、相当に長く存続していたようである。 同じく、大月氏王国も長く存続することになる。

酒泉市

前漢の前半時代において、現在の酒泉市一带は匈奴王国の版図下にあり、その遊牧民族らの 放牧地とされていた。この地は、当時、匈奴国の右地を呼ばれていたらしい。
紀元前 121年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により、霍去病を総大将とする遠征軍が西域へ派遣され、同年秋に渾邪王を撃破し、 匈奴の残党勢力を玉門関外へと追い出すことに成功する。それからすぐ、 西漢王朝は数十万にも及ぶ漢族農民をこの占領地へ移民させ、農地開墾を進める。 これ以降、当地における農耕文化が開始されたという。
移住民が増え、土地開発が進むにつれ、この地は酒泉と呼ばれるようになる。 「城下には泉がたくさんあり、その水は酒のようにおいしい」という 伝承から派生したという。
そして、紀元前 106年、前漢王朝はこの地に「酒泉郡」を設置するに至る。 また、禄福県城とされていた、現在の酒泉市区に「酒泉郡」役所が開設されている。 敦煌県が設置されたころ、郡役所が移転される。

酒泉市

この体制は、南北朝時代の北魏王朝の時代の 435年まで継承されていった。 ただし、現在の酒泉市に関しては、三国時代を統一した西晋王朝の末期、295年、 禄福県から福禄県へと改名されている。

南北朝時代を統一した隋王朝の 583年、酒泉鎮長官の名称が、酒泉鎮軍へと改名される。 続いて、602年、郡制度が廃止され、州と県のみの 2段階制度へと政治改革が進められたことを 受け、酒泉鎮は粛州へと改名され、長官職も剌史と呼称されるようになった。

624年、唐朝 初代皇帝・高祖により、酒泉県が設置され、粛州に帰属するものとされる。 しかし、唐代中期に安史の乱がおこり、唐王朝の力が大幅に低下し、西域経営が 疎かにされるようになると、この機に乗じて、西域諸民族らは独立や唐領への侵攻を繰り返し、 酒泉地方に至っては、763年、吐蕃国(チベット族)に占拠されてしまう。そして、吐蕃国により、 粛州千戸府が開設された。この時から、88年後の 852年まで、吐蕃国の版図下に置かれることに なった。そして唐末には再びこの地の支配権を失い、五代十国の戦乱時代、西域民族の回鶻 の支配下に組されていた。

戦乱が続いた中国本土を統一した北宋の時代、酒泉市一帯を含む西域領土は 西夏王国の版図下におかれていた。しかし、その西夏王国もモンゴル帝国の 4回にも及ぶ侵攻で滅亡させられ、以後、モンゴル帝国の領土とされる。
1271年、フビライにより元王朝が建国されると、この西域統治として粛州路が 設置され、その長官は 達魯花赤(モンゴル人かイスラム系)が担当することになった。

時代は下って、明代においては、粛州衛へと改名され、その長官は 指揮使と呼ばれる。また、清代に至っては、粛州へと改編され、このまま近代を迎える ことになる。

酒泉市

現在の酒泉市中心部にあった、かつての 禄福県城(酒泉郡古城)跡であるが、南西側にある 城門「福禄門」跡以外は、完全に城壁も撤去されてはいるものの、現在の路地名にかつての城郭都市の名残が色濃く残されている。北環路、西環路、南環路、東境路、倉后街、倉門街、北市街、北大街、北門什字、西小巷、小西街(古城門跡「福禄門」あり)、西大街、南市街、南城巷、


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