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河南省開封市 ~ 人口 505万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  浚儀県城(戦国期の魏国王都・大梁城跡、汴州城、汴京城、北宋朝の王都跡、祥符県城、【初代、3代目】開封府城、【2代目】開封県城)
  【初代】開封県城(啓封県城、【2代目】開封府城、汴梁路城)
  小黄県城
  通許県城(通許鎮城、咸平県城)
  尉氏県城
  祥符県城



【 開封市の歴史 】

開封市内にある万隆崗遺跡などの発掘調査から、5000~6000年前の新石器時代には、すでに人類の生息が確認されているという。
夏王朝の第7代国王であった杼(予)が即位すると、最初の5年間は王都・原を継承したが、後に老丘(今の開封市一帯)への遷都を決行する。以後、第13代国王の胤により西河の地(河南省安陽市)へ再移転されるまで、232年もの間、国政の中心都市とされた。下地図。

開封市

紀元前8世紀の春秋時代期、鄭国の庄公が今の開封市中心部の南にある朱仙鎮一帯に、食糧や軍事物資の貯蔵用施設を建設する。当時のスローガンであった「啓拓封疆(未開の地を開拓・統治・啓蒙する)」から派生され、啓封と命名される。

戦国時代期の紀元前341年、西隣の秦国からの度重なる侵攻に耐え兼ね、魏第3代国王の恵王は王都を安邑から大梁(今の開封市)へ遷都する(以後、6代136年間)。大梁が王都に定められると、すぐに土木工事が進められ、黄河の水を圃田澤(今の鄭州市管城回族区圃田郷圃田村)へ引き込むべく、運河建設が着手され、圃田水と淮河との接続に成功する。
こうして魏国の王都となった大梁城は大発展を遂げることとなる。下絵図は、かつての大梁城の位置を示す。以後、魏国は梁国とも別称される。

開封市

これに伴い、当時、多くの逸材らがこの地に足跡を残すこととなった。性善説を唱えた孟子が大梁に立ち寄り、恵王との問答で「五十歩百歩」の故事を生んだことは特に有名。さらに、魏の皇族であった信陵君の独断による趙国救済と五ヶ国連合軍による秦軍の大破という「窃符救趙」のエピソード、兵法家として名高い斉国の軍師・孫臏と、魏の将軍・龐涓との戦闘秘話など、戦国期を代表する逸話が盛りだくさんの土地柄である。下地図。

開封市

紀元前221年、秦の始皇帝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入される。
このとき、魏国の王都が開設されていたこともあり、大梁城跡(今の開封市の北西部)は一県城レベルである浚儀県へ降格された(三川郡に帰属)。浚儀県は以後、800年近くも開封市の地名として継承されていくこととなる。

前漢時代、浚儀県は河南郡に、新設された啓封県(開封市祥符区朱仙鎮の一帯)は河南郡に帰属された。下地図。
啓封県は後に、第6代皇帝の景帝(劉啓)の名前とダブるということで開封県へ改名される。

開封市

後漢末期、董卓暗殺に失敗した曹操を陳留郡太守の張邈が匿っていたころ、その配下の衛茲(襄邑県出身)は曹操と親交を深め、190年、ついに曹操が挙兵した際、張邈の命により、衛茲も曹操率いる遠征軍に参加する。
しかし、河南郡下の滎陽県汴水で董卓軍の徐栄と交戦し、衛茲は戦死し、曹操も負傷する大惨敗を喫している。
董卓の死後、最終的に張邈は曹操と敵対することとなり、195年に暗殺され、さらに翌196年には陳留郡城(小黄県城)も陥落し、雍丘県城に追い詰められた張邈の遺族らはすべて処刑される。上地図。

三国時代後期の265年12月、相国の地位にあった司馬炎により、魏の曹奐(元帝)は権力禅譲を強制され、西晋王朝が建国される。このとき、司馬炎は曹奐を陳留王に封じ、小黄県(今の開封市祥符区陳留鎮の北東部)、浚儀県(今の開封市中心部)、封丘県(今の新郷市封丘県)、酸棗県、済陽県 長垣県、雍丘県、尉氏県、襄邑県、外黄県の10県からなる三万戸の陳留国を分与する。その王都は、小黄県城とされた。上地図。


開封市

南北朝時代の宋朝の治世下、陳留郡(陳留国から改編)はより縮小され、浚儀県、小黄県、白馬県、雍丘県の4県のみを統括し、その郡都は倉垣城(今の開封県北西の倉家寨一帯)へ移転される。

特に華北おいて覇権を握った北魏は、黄河を南下して勢力を拡大し、浚儀県(今の開封市中心部)一帯に張り巡らされていた水運網を大いに活用して南朝側との抗争を展開することとなる。
同時に、陳留郡の郡役所が浚儀県城内へ移転され、浚儀県、封丘県、小黄県の3県を統括することとされた。後に、梁州の州役所も併設される。

534年、北魏より分裂した東魏朝により、梁州の下に陳留郡、開封郡、陽夏郡が新設される。
北周朝の統治下の576年、梁州が汴州へ改名され、役所はそのまま浚儀県城(今の開封市中心部)に開設された。下地図。

開封市

また、南北朝時代を統一した隋朝の第2代皇帝の煬帝により、長江から黄河を結ぶ大運河の建設が着手されると、その途上に位置した浚儀県城(汴州城)は交通の要衝として、さらなる繁栄の端緒をつかむこととなった。
黄河と淮河を貫通する形で大運河(今の汴河)が開発され、その途上に開封があり、王都である洛陽への重要な中継地点となったわけである。上地図。

唐代に入って、この大運河の運用が本格的に始まると、開封の発展は飛ぶ鳥を落とす勢いとなる。
621年には浚儀県城内に汴州総管が新設される。
781年には、皇室の一人であった李勉が汴州節度使に任命され、これにあわせて、城域の大規模拡張工事が進められ、その城壁は周囲11kmにも及ぶ巨大なものとなった。これが現在に残る開封城の原型となっている。下地図。
784年、淮西節度使の李希烈が反唐で挙兵した際、汴州城はその反乱軍の攻撃を数カ月間も持ちこたえ、難攻不落と世に称えられる名城となる。

開封市

五代十国時代、後唐を除き、後梁、後晋、後漢、後周の各王朝はいずれも開封を王都と定め、東都もしくは東京などと通称された。
後梁朝はわずか17年間しか 王権を存続できなかったものの、かつての盆地部である洛陽や長安に代わって、東の平野部の開封へ首都機能を移転させたインパクトは大きく、 以後の王朝に継承される流れを作ったことになる。開封は中国全土の政治、経済、文化、軍事の中心都市として君臨することとなった。

923年に後梁が滅びると、後を継いだ後唐が王都を盆地部の洛陽に定め、開封城には宣武軍が設置されている。
しかし936年、石敬瑭が後唐を滅ぼし、後晋を建国すると、再び、洛陽から開封へ王都が移転される。
早くも947年には後晋も滅亡し、続く後漢が建国されると、開封がそのまま王都となる。951年に郭威が澶州(今の濮陽市)の変を起こし挙兵すると、後漢も滅亡に追い込まれ、その直後に後周朝が誕生する。

開封市

後周初代皇帝の郭威の後を継いで柴荣(世宗)が即位すると、国内改革が積極的に推進される一方で、3度もの南唐遠征が実施される。このとき、南唐から奪った淮南十四州が版図下に組み込まれ、両国に分断されていた南北大運河が再活用されるようになる。こうして開封の発展の足がかりが再スタートされることとなった。
955年には、柴荣により10万人が動員されて、汴州城の外側にさらに外城壁が増設される。上地図。

960年、後周朝の殿前都点検であった趙匡胤が開封府城(浚儀県城)の20kmにある陳橋驛(今の新郷市封丘県)での陳橋の変を経て、北宋を建国することになる。以後、9代168年にわたって、 開封城(浚儀県城)は北宋の王都とされ、最盛期を迎えた。 その人口は100万人を超え、中国のみならず、世界でも屈指の大都市となる。
その栄華ぶりは清代に描かれた『清明上河図』として広く知られている。下絵図。
なお1010年、北宋朝の王都であった浚儀県城は祥符県城へ改称される(北宋朝の年号から命名)。王都が祥符県城内に開設されたため、 開封府役所は南側の開封県城内へ移転された。

開封市

しかし、1127年、東北部より侵入した金国により北宋が滅ぼされると、旧王都跡の開封城(祥符県城)は汴京へ改名される。また、開封県城内に 開設されていた開封府は汴梁路へ改編され、その役所はそのままとされた。
1153年、金第4代皇帝の海陵王(完顔亮)が、王都を会寧城(上京会寧府への改称:今の現在の黒竜江省ハルビン市阿城区南白城)から燕京(中都大興府へ改称:今の北京)へ遷都するに及び、汴京(祥符県城)を南京開封府へ改名され、金国の副王都に指定される。しかし、1155年に汴京にあった北宋時代からの王宮が火災で全焼してしまい、すべての館が灰塵に帰してしまう。

開封市

1161年始め、金朝の完顔亮は自ら南宋攻撃を陣頭指揮するにあたり、一時的に、副王都の南京開封府(祥符県城)に滞在したことから、しばらくの間、金国の実質的な首都機能を担うこととなった。このとき、合わせて開封城の大規模改修工事が進められている。

しかし、急激な漢化が進み、金王朝内の女真族らの武力低下と経済破綻が深刻化すると、、1211年にはモンゴル族のチンギス・ハーンの南下を受け、華北各地を収奪されることとなる。こうして国力が大幅に衰退した金朝は、モンゴル側と和議を結び、その属国へ貶められた。

しかし1214年、金国の宣宗はモンゴルの脅威から距離を置くべく、突然、中都(燕京)から南京開封府へ遷都してしまう。これに激怒したモンゴル軍の大南征を受け、金朝は華北の大部分の領土と東北部全てを失うこととなった。

ついに1233年、開封城もモンゴル軍に包囲されるに及び、金国の哀宗は開封城から蔡州城(歸徳府:今の商丘市)へ逃亡するところをモンゴル軍に追撃され、自害して果てる。
こうして金王朝は滅亡し、華北部はモンゴル族の版図下に組み込まれた。開封城(祥符県城)内に河南江北行中書省が新設される。

開封市

最終的に南宋をも併合し中国大陸を統一した元朝も100年の統治時代が過ぎ、いよいよ末期の頃となると、 全国各地で農民や軍閥らの反乱が多発するようになる。そのうちの一つが、小明王の韓林儿の率いる紅巾軍で、 漢民族系の宋王朝の継承を唱えた、農民政権の「龍鳳」国が樹立されるに至る。その拠点は開封城に定められた。

しかし、その龍鳳国も間もなく朱元璋により滅ぼされることとなる。
1368年3月、徐達帯が率いる北伐軍が山東省と河南省の一帯を軍事占領すると、多くの家臣らが朱元璋に、この汴梁(開封城)の地に王都開設を進める。 4月に当地へ入城した朱元璋は汴梁を北京開封府へ改名し、応天(南京市)とあわせて、2つの都市を同時に王都と定めることとした。このころ、朱元璋は未だその本拠地を決めかねていたことが背景にあった。下地図。
そんな中、同年8月初旬に北伐軍が元朝の王都である大都(今の北京市)を陥落させると、華北地帯での緊張状態も過ぎ去り、同月下旬には朱元璋は最終的に南京(応天府)に王都を構えることに決定する。
そして、開封府は北京開封府へ変更された。

開封市

1379年、北京開封府から開封府へ戻される。 同時に、朱元璋はその第5男の朱橚を周王に封じ、開封府一帯を統括させることとする。 このとき、南側の開封県城は廃城とされ、その県域は北側にあった開封府城(祥符県城)に編入される。
以後、開封府城(祥符県城)内 には河南承宣布政使司の役所も併設されるなど、数ある封国の中でも群を抜く豊かさと影響力を有するようになる。
明代を通じ、開封府は北京と南京に次ぐ、第三の大都市として君臨していくこととなった。下地図。

開封市

清朝により中原一帯が平定されると、1662年、荒廃した開封城の改修工事が進められる。引き続き、河南省役所と開封府役所は開封城内に併設された。
しかし、明末期の動乱の渦中にあって、開封城の破壊と衰退は進み、清朝による修復工事後も、ついに明代の開封城が誇った経済的栄光を取り戻すことはできなかった。他の周辺都市にその経済的優位性を譲っていくこととなる。一方で、清代を通じ、開封城は河南省の行政の中心都市であることには変わりはなく、省内の文物が集積する一大拠点であり続けた。

清朝も末期となると、開封は河南省内の反清革命の中心都市として機能することとなる。

開封市

中華民国が建国されると、開封府は豫東道へ、祥符県は開封県(今の開封市祥符区)へ改称される。1929年に初めて開封市が成立する。
日中戦争時代の1938年、開封県は日本軍に占領され、翌1939年に日本軍の傀儡政権である河南省政府が設立される。これは1945年の日本軍による無条件降伏まで存続された。


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