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雲南省昆明市 ~ 人口 727万人、 一人当たり GDP 49,000 元


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  昆明城(鄯闡城、雲南府城)



【 昆明市の歴史 】

昆明地区での古滇国の建国から、この地の文明史が始まる。
時は戦国時代、紀元前306年に楚国は近隣の越国を滅ぼし勢力を拡大するも、紀元前301年には、斉、韓、魏が連合軍を組んで楚国に攻め入り、楚国は大将軍の唐蔑を戦死で失い、大敗する。このとき、宛と葉の大部分の領土を魏国と韓国に占領されてしまう。ちょうど同時期、王都でも大火災があり、国内統治も乱れに乱れるあり様であった。
このとき、楚皇室の末裔であった庄蹻が民衆を率いて反乱を起こし、全国に戦乱が飛び火していった。王都であった郢をも占領され、楚国の統治機構は寸断されてしまう。
乱を首謀した庄蹻は、楚頃襄王を帝位(紀元前298~紀元前263年)に祀り上げる。
昆明市 昆明市

楚頃襄王の命により、庄蹻は長江を遡って四川、雲南へ遠征軍を率いて出陣する。当時、秦国が巴国や蜀国を滅ぼして設置していた四川省の巴郡や黔中郡を占領し、さらに南下して滇の地(今の雲南省昆明市一帯)まで軍を進めている。最終的に紀元前286年、庄蹻は武力で西南地帯を征服し、楚国の領土下に併合することに成功する。しかし、巴郡と黔中郡は紀元前279年に、秦国により再奪取されてしまい、滇の地にあった庄蹻は楚国への退路を断たれてしまう。そして、紀元前277年、自らを滇王(庄王)として古滇国を建国することになる。 当時から雲南地方の最大の湖であった滇池の周辺一帯を勢力圏に治め、その王都は現在の晋寧県(昆明市の対岸にある)に築城された。 また、この地に駐留した楚軍により、中原の先進的な文化が滇の地に伝えられ、経済、社会発展に大きな影響をもたらせたという。
祖国の楚は、紀元前223年に、秦国の名将であった王翦が率いる60万の大軍を前に大敗し、滅亡してしまう。秦朝により中原が統一された後も、この古滇国は独立を保ったままであった。

しかし、前漢王朝下の紀元前109年、古滇国王の常羌が第七代皇帝の武帝に臣下の礼を取ることとなり、正式に古滇国王として封じられ、武帝より金印を下賜されている。このとき、益州郡が新設され、その下に24県が配された。当時の益州郡は雲南地域のほぼ全域まで広がり、その郡行政庁は、当時の古滇国の王都であった滇池県城内(今の昆明市南30kmにある晋県)に開設された。

そして、三国時代。蜀の劉備死後、雍闓(ようがい)を中心に、雲南一帯の諸郡も蜀への反抗を強め、呉の孫権へ帰属しようとする。すでに、劉備率いる蜀軍の大敗を知り、帰属先を呉に変更していた交州の士燮の仲介も経て、一時的に呉の勢力圏下に組み込まれることになる。さらに、現在の曲靖市出身であった孟獲もこの指令を受け、周辺部族らの説得工作を進めていく。しかし、225年、蜀本軍の諸葛孔明が南蛮遠征を決行するに至り、首謀者であった雍闓は殺害され、孟獲が代わりに総大将として祭り上げられる。こうして同年9月までの約半年にわたる戦いを経て、かつてより雲南地方の中心地域であった「滇池」の湖畔地帯(現在の昆明市南)にまで蜀軍が至り、孟獲は完全降伏する。孔明は反乱軍の平定後、益州郡から分離させて建寧郡を新設し、今の曲靖中心部にあたる味県城にその郡行政庁を開設して、蜀軍を駐留させることで、雲南地域の軍事・統治・経済の中心拠点と定めて、成都に戻っている。 この滇池一帯は、地元豪族の爨氏に管轄させたという。

時は下って、唐王朝下の765年、南詔国王であった閣羅鳳は東部地域の民族征服をもくろみ、その前線基地として自分の息子の鳳伽異を派遣し、今の昆明市中心部に拓東城を築城させる。後に、鄯闡城(原住民の言語で「第二の城」の意味)へと改称され、東都とも別称された。これが昆明初の城塞となっている。

昆明市

1253年に南下したフビライ率いるモンゴル軍の攻撃を逃れるべく、南詔国を引き継いでいた大理国王はその王都である大理を放棄し、この鄯闡城へと逃走するも、フビライ軍も追撃を開始し、翌1254年早々にここ鄯闡城にて降伏する。
1276年、元王朝は全国13行省の一つとして雲南行中書省を新設する。このとき、長らく大理国の王都であった大理から昆明(当時は中慶と呼ばれた)へと行政庁が移転され、以後、昆明が雲南地方の中心都市として成長していく。

1381年、明朝初代皇帝の朱元璋は、傅友德と藍玉、沐英を将軍として、30万の大軍を雲南地方へ派遣し、モンゴルと親族政権であった梁王国を滅亡させ、中国全土の統一を完成させる。その翌年、中慶路を雲南府へと改称し、沐英が雲南府太守として、本格的な煉瓦積みの城壁都市(雲南府城)の築城を開始する。城壁周囲は約4443mで、その高さは9m、城門を6箇所に持つ巨大都市が建設されることとなった。
あわせて、明王朝は漢民族の雲南地方への移民を奨励し、大いに人口構成を変えてしまうことになる。
昆明市 昆明市

明朝末期、南明の永歴帝がこの旧滇国の地に入り、昆明を王都「滇都」と改名して、清軍に抵抗し続けるも、明の降将で清軍に加担した呉三桂により、1659年、滇都は占領され、永歴帝はさらにビルマ方面へと追われていく。そして、ついに呉三桂は永歴帝を捕縛し、1662年6月1日、滇都にて処刑する。この功績により、呉三桂は清国王により平西王に封じられ、雲南地方一帯の領有を認められることとなった。これにあわせ、呉三桂は五華山と翠湖の一帯に王都の建設を始める。

昆明市

しかし、1673年、清皇帝の康熙は藩制度の廃止を決定したため、呉三桂は昆明にて挙兵し、反清抗争を展開していくことになる(三藩の乱)。1678年に呉三桂は66歳で病没後、孫の呉世璠が跡を継ぐも、清軍の反転攻勢でついに昆明まで攻め入れられ、1681年に自害して果てる。こうして清朝による中国統一が成った。

清朝末期の1858~1868年、イスラム教徒の杜文秀による反漢民族、反清運動が雲南地域に巻き起こり、大理など、大小50箇所以上の県城を制圧し、雲南省西部一帯を占領するも、数度にわたる昆明城の包囲戦に失敗し、勢いを失って、1872年に杜文秀は服毒自殺するに至る。残党勢力も1874年までに掃討された。
1910年にフランスにより滇越鉄道(今の昆河鉄道)が開通し、昆明とベトナムとが直接、鉄道でつながることで、昆明市はそのまま海路へとつながる内陸都市となる。また同年に、ドイツの技術者を招いて、中国初の水力発電設備の建設を開始し、実際に1912年4月より電力供給が始まっている。中国の奥地に位置する内陸都市にもかかわらず、昆明の近代化は東南アジア方面の欧州列強の手で確実に進められていくこととなった。

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なお、この昆明古城(鄯闡城)であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての巨大城壁都市跡の面影もわずかな路地名に残されているのみである。順城街、沿河路(かつての堀川跡)、市府東街、銭局街、倉園街、府通街、北門街、五華坊(昔の役人や資産家の住宅街)。


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