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四川省楽山市 ~ 人口 355万人、 一人当たり GDP 32,000 元


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  楽山県城(南安県城、嘉定府城)



【 楽山市の歴史 】

5000~10000年前にはすでに人類の活動がこの地で確認されており、そして、 紀元前2000年ごろには青銅文明が出現していたようである。 そして、紀元前600年ごろ、開明氏部族らがこの青衣江の流域に定住し、土地の開墾を進めていたという。
春秋戦国時代の紀元前309年、秦国の武王が軍を派遣し、四川省方面を平定する。このとき、開明氏部族の土地も 占領される。すぐに、秦国は現在の楽山市街区に南安県を設置した。そして、秦国は自領(現・隴西省)を流れる 「涇水」流域から、大量の住民をこの青衣江流域へ移住させ、中原文化との融合を推進した。
紀元前256年には、李冰により水運整備が進められ、岷江と大渡河の合流地点という地の利を生かした水運都市の発展の 礎が完成する。

後漢の135年、蜀郡および巴郡を分割して、その中間に犍為郡が設置された。南安県はこれに帰属した。なお、 前漢時代には、南安県出身の鄧通により、貨幣銭が鋳造され、全国へ流通するようになる。当時は、「鄧氏一族の銭が天下を巡る」と 言われたほどであった。

そして、三国時代。蜀の丞相「諸葛亮」は犍為郡の鉄鉱山にて鉄製の武器や工具類を大量に製造した。 当時の楽山一帯の製鉄技術はかなりの先進的水準に達していたようである。これが孔明の北伐や物資輸送で の大きな力となっていく。

楽山市

三国時代が終わり、晋朝、南北朝時代において、この地の製鉄業は特に重視され、国家管理される。 さらに、広西省、貴州、雲南省一帯から10数万人が四川省へ移住させられ、楽山の犍鉄鉱山や、その河川流域等に 広く分布し、居住していくことになった。
北周王朝の時代、「この土地は美しい(嘉美)」という意を込めて、嘉州が新設された。隋朝時代は眉山郡が設置され、 南安県も龍游県へと改名された。これは隋王朝が成都から、陳国の敗残兵掃討のため楽山方面へ進軍し、最終的な 中国統一が成功したことを記念し、命名されたという。また、このとき、楽山に巨大船の造船施設が作られ、以後、 四川省内の河川水運上、重要な造船都市として発展していくことになった。

そして、唐代になって、嘉州、眉州へと行政区名の変更があった。また、山岳地帯では茶栽培も急速に発展する時期となる。 この唐代中期に、世に知られる「楽山大仏」が作られている。

南宋時代には嘉州から嘉定府へ、元代にはさらに嘉定路へと地名の変更が進められた。そして、清代の1734年、嘉定州を昇格して 嘉定府とし、その役所を楽山県に設置した。この命名は、城外西南5kmにあった楽山にちなんで決定された そうである。

楽山市

この地も、現在はかつての南安県時代から続く古城壁はすべて撤去されてしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。東大街、土橋街、鼓楼街、府街、県街。城外北側には、護国寺巷、川主寺巷、張公橋街、米市巷街などが残されており、城外の郊外市街地は北側へ広がっていたことが伺える。

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