BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 連雲港市 ~ 人口 450万人、 一人当たり GDP 55,000 元


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  朐県城(海州城、海寧州城)
  贛榆県城
  東安県城
  平曲県城
  祝祺県城
  利城県城
  厚邱県城
  海西県城
  厚丘県城



【 連雲港市の 歴史 】

夏王朝、商(殷)王朝、および西周王朝の時代、彭城(今の 江蘇省徐州市)より東方に住む人々は、すべて東夷族に分類されていた。

連雲港市

春秋時代には郯子国の版図下にあったが(上地図)、春秋時代末期には、郯子国は魯国の属国と化しており、 戦国時代に入ると楚国に従属し、滅亡を免れながらも、独立を失い、封地は縮小された。

紀元前 223年に楚国を滅ぼした秦国は、東海郡を新設し、その郡下に 朐県、郯城県、蘭陵県、襄賁県、繒県、下邳県、淮陰県、盱眙県、東陽県、堂邑県、広陵県、凌県の 12県を配する(下地図)。
現在の連雲港市もこの東海郡に帰属した。

連雲港市

前漢時代には引き続き、徐州下の東海郡に所属する。
この時代、郡下には 朐県、郯城県、蘭陵県、襄賁県、繒県、良城県、下邳県、平曲県、戚県、開陽県、臨沂県、利城県、海西県、蘭祺県、南城県、山郷県、即邱県、祝祺県、費県、厚丘県、容邱県、東安県、合郷県、丞県、建陽県、曲陽県、司吾県、于郷県、都陽県、陰平県、吾郷県、武陽県、新陽県、建凌県、昌慮県、都平県、建郷県、平曲県の 38県が存在した(下地図)。

連雲港市

後漢時代が始まると、東海郡も縮小され、朐県、郯城県、蘭陵県、襄賁県、戚県、利城県、祝祺県、承県、厚丘県、合郷県、昌慮県、贑榆県、陰平県の 13県のみを統括するに過ぎなかった(上地図)。

間もなくの紀元 41年、光武帝(初代皇帝、在位 25~57年)は 劉荘(後の 2代目皇帝・明帝。在位 57~75年)を東海王に封じ、東海郡を東海国へ昇格させる(下地図)。43年に劉荘が皇太子に任じられると、 もともと長男で皇太子候補だった 劉彊(25~58年)が東海王に封じられ、以後、その子孫は途切れることなく、後漢朝滅亡の 220年まで 存続することとなった。

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三国時代期の 220年、魏の曹丕が献帝を廃し、後漢朝を滅ぼすと、東海国(6代目東海王・劉羡)も廃止され、 東海郡へ再改編される。その版図は 朐県、郯城県、蘭陵県、襄賁県、戚県、利城県、 祝祺県、承県、厚邱県、昌慮県、合城県の 11県に定められる。

西晋時代期、北に位置した贑榆県が追加され、東海郡は 12県体制となる。


南北朝時代が始まると、後趙、前燕、南燕、東晋朝など、為政者の目まぐるしい変遷に巻き込まれるも、東海郡はそのまま継承された。この時代、郡下には朐県、郯城県、利城県、襄賁県、祝祺県、厚邱県、贑榆県の 7県が配されていた。

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南北朝時代の後半、一帯の行政区はさらに細分化されることとなる。

南朝の斉、梁王朝の時代、東莞郡(後に琅玡郡へ改称。即丘県、南東莞県、北東莞県の 3県を統括)、北東海郡(襄賁県、僮県、下邳県、厚丘県、曲城県の 5県を統括)、北海郡(都昌県、広饒県、贑榆県、膠東県、劇県、下密県、平寿県の 7県を管轄)、斉郡(臨淄県、斉安県、宿豫県、尉氏県、平慮県、昌国県、益都県、西安県、泰県の 9県を監督)が存在した。

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北朝の東魏朝の治世時代には、琅玡郡(別称:海州朐県)、東彭城郡(龍沮県、安東県、勃海県の 3県を統括)、東海郡(贑榆県、安流県、広饒県、下密県の 4県を管轄)、海西郡(襄賁県、海西県、臨海県の 3県を監督)、沭陽郡(下邳県、臨渣県、懐文県、服武県の 4県を統括)、琅玡郡(朐県、海安県、山寧県の 3県を管轄)、武陵郡(上鮮県、浴安県の 2県を統括)が配された。

北斉、北周王朝時代には、海州に帰属され、その配下に、東海郡(広饒県と東海県の 2県を統括)、朐山郡(朐山県のみ管轄)、武陵郡(上鮮県と洛安県の 2県を統括)、沭陽郡(沭陽県のみ管轄)、海安郡(襄賁県のみ監督)が設置されていた。

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北宋時代の998年、全国が 15路に区分けされると、海州は淮南路に帰属された。1073年にその淮南路が東西に分離されると、海州は淮南東路に属した(上地図)。

1127年に北宋を滅ぼした金軍は、趙構(高宗)が建国した南宋との 戦争をそのまま継続し、1130年、海州を占領するに至る。
1161年、采石磯の戦いで金軍に勝利を収めた南宋は、 そのまま北上し、翌 1162年、海州を再奪還する。しかし、さらに翌 1163年、金軍に再占領を許してしまう。 そして、南宋と金朝との間で、1164年、和平締結が成る(隆興の和議)。

1220年、北方のモンゴル族の侵入に疲弊し、国力に 陰りが見えていた金朝から、南宋は再び、海州を奪取する(1234年、金朝滅亡)。
1262年、海州が西海州へ改称される。しかし、1275年に西海州もモンゴル軍に占領されると、西海州は海州へ戻される(下地図)。

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元代の 1279年、海州が 海州路総管府(後に海寧府へ改編)へ昇格されると、その配下には朐山県、沭陽県、贑榆県(後に懐仁県へ改名)、東海県、及び録事司が配された。

1284年、海寧府が海寧州へ改編され、そのまま淮安府路の管轄下に移籍される。また同時に、録事司と東海県が廃止され、共に朐山県に吸収合併される。

明代初期の 1368年、海寧州が海州へ戻される(引き続き、淮安府に帰属)。
この時、朐山県と沭陽県が廃止され、淮安府(府役所は山陽県城 ー 今の淮安市淮安区)の管轄区に組み込まれる。
海州は唐代の 627年以来、独立州として機能してきたが、これ以降は府下に甘んじることとなった。
その領域も、現在の連雲港市中心部、贑榆県、東海県、灌雲県、灌南県の一帯へと縮小されるに至る。
また同年、江南行中書省が廃止され、淮安府は中書省下に帰属された(1381年に中書省が廃位されると、六部が直轄)。

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明代末期の 1644年、満州より流入した清軍により、海州も占領されることとなる。
翌 1645年、清朝支配下で江南省が新設されると、淮安府(海州を含む)はここに所属した。
1667年に江南省から江蘇省が分離・新設されると、海州は江蘇省下の淮安府に属した(下地図)。

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1724年、海州が直隷州へ昇格される。この時、州役所と 贑榆県、沭陽県の 2県が淮安府下から分離され、独立州となる。その管轄域は、現在の連雲港市中心部、贑榆県、東海県、沭陽県、灌雲県、灌南県、响水県の一帯に及んだ。

中華民国時代の 1912年1月、海州直隷州が廃止され、東海県へ降格される。その県役所は今の 連雲港市中心部(海州区)に開設された。東側が海に面したため、東海と命名されたという。
同年 4月、東海県の東部の 11鎮が分離され、灌雲県が新設されている。


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