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吉林省遼源市 ~ 人口 120万人、 一人当たり GDP 62,000 元


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  西安県城
  龍首山山城
  東安県城



【 遼源市の歴史 】

新石器時代より原住民族の集落が形成されていたことが確認されているという。中原にて周王朝が存在したころ、遼源市一帯には濊貊族や粛慎族らが割拠する地域となっていた。
この頃より、現在の遼源市の中心部に位置する龍首山の山上に環濠集落が 建設されたと考えられている。当時の石器類が多く発見されているという。この龍首山山城が 本格的に軍事城郭へと拡大されていくのは高句麗時代となる。

前漢朝から南北朝時代にかけて、現在の遼源市エリアは、中原王朝側の力が強いときには玄菟郡の帰属下に含まれたものの、これ以外は、夫余国の支配下に入るなど、北方遊牧民族の勢力圏(高句麗、勿吉など)に組み込まれていたようである。

遼源市

南北朝時代を統一した隋朝は、この遼東半島、東北地方一帯に勢力を張っていた高句麗への攻撃をしかけることになる。 高句麗の支配時代、その領土下では中国に習った郡県制が敷かれていたとされる。

高句麗遠征に失敗し国力を疲弊させた隋朝は間もなく滅亡し、 代わって唐朝が建国される。唐によりついに高句麗も滅亡させられ、現在の遼源市一帯は河北道安東都護府の南蘇州の 管轄下に組み込まれた。また、後にこの地域に勃興したきた渤海国(唐朝とは朝貢関係)の領土下では、 東豊県は長嶺府、東遼県は夫余府にそれぞれ管轄されることとなる。

宗主国であった唐朝も907年に滅び、強力な後ろ盾を失った渤海国は、 926年に契丹国(のちの遼国)の攻撃を受けて滅亡する。 同年、契丹国は旧渤海国領を東丹国として再編し、現在の吉林省長春市農安県の旧市街地内に黄龍府を築城し、 975年まで、一時的にここに王都を置くこととなる。この過程で、唐朝の行政制度を導入していた渤海国の 諸制度が遼国にも応用され、契丹国もまた中原化されていったと考えられている。
現在の遼源市エリアは東京道長嶺府の帰属とされ、梅河口市に山城鎮が設置されている。

しかし975年、黄龍府衛の将軍であった燕頗(渤海族出身)が東丹国内で勃発する旧渤海族らの反乱に呼応し、 黄龍府都監の張琚(契丹族出身)を殺害し、城を占領する(夫余府へ改称する)。他に台頭した旧渤海族の遺民らが決起して建国された 兀惹国と定安国とも連携し、2か月の間、勢力を拡大した。しかし、契丹国の遠征軍に敗れ、 黄龍府(開原夫余府古城)を放棄することとなり、このとき、黄龍府が大いに荒廃し、そのまま廃棄されることとなる。 反乱軍側についた黄龍府内の残存住民らは北へ連れ去れられ、新たに築城される通州城(昌地県四面城古城) の工事用労働力として使役されることとなる。反乱は北へ東へと移転しつつ、996年まで継続された。

遼源市

その遼国も1125年に金と北宋により挟撃されて滅亡する。 この地を支配した金朝時代、遼源市エリアは咸平路に帰属された。
元朝時代、遼陽行省開元路咸平府斡磐千戸所の下に置かれ、遼東宣慰司が統括した。

明朝初期、五郡都督府(後に奴爾干都司)の下、遼都衛(後には遼東都指揮使司)の管轄下に置かれた。 東遼県と東豊県は三万衛(後に塔魯木衛、吉河衛)の下に配される。

しかし、明朝の東北支配は長くは続かず、1437年以降、女真族勢力らにより占領され、 遼東の辺境の地として、明朝支配が及ばない地域となっていく。

遼源市

東北部に割拠した女真族(後の満州族)でも、東部は海西女真哈達部、西部は葉赫部などの複数の部族が分かれて抗争を続ける状態であった。
1619年、このうちの一部族を率いたヌルハチが葉赫部を滅ぼし、ほぼ東北部の平定を成し遂げる。このとき、ヌルハチは今の遼源市全域を大囲場(皇族専用の狩猟場)の一部として指定する。
1661~1722年、遼源市域は正式に盛京囲場となり、皇室専用の狩猟地とされた。当時、各囲場の名前は地形や特徴的な物、もしくは生息する動物やその活動区域を示す自然物などより命名されていた。また一部では明末から清初にかけて使われていた地名も援用される。

1878年、盛京将軍の曾祺が清朝廷に対し、西流水囲場と東流水囲場が解禁を上奏する。
1896年、囲場の解禁が決定される。
1900年、盛京囲場総管の高万梅が西流水四十五囲場を一般開放する。
1901年、清政府は扎拉芬阿林囲の大疙瘩(今の龍首山)の西側に東路保甲分局を設置する。これが、現在の遼源市域において初めて設置された行政庁となる。
1902年、海龍庁が海龍庁府へと昇格させたとき、今の遼源市一帯が正式に管轄区に加えられ、それぞれ東西に一県役所ずつが配置されることとなる(東安県城と西安県城)。
1904年、現在の遼源市中心部に西安県城が築城される。市民らも資材を提供し合い、4城門を持つ城郭都市が完成する。東西南北の城門はそれぞれ、東吉門、西寧門、南康門、北寿門と命名され、堀川は全長 1390mを有するものであった。
1907年、奉天省が設立され、西安県はここに帰属された。
その後、中華民国、満州国、共産党時代を通じ、奉天省、遼寧省、遼北省、遼東省などに帰属された。最終的に1983年、吉林省下の遼源市が成立し、今日に至ることとなる。

遼源市

なお、清朝末期に遼源市中心部に築城された西安県城跡であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。バス停留所「北門」、北門区など。

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