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雲南省麗江市 ~ 人口 125万人、 一人当たり GDP 13,000 元


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  麗江城(大研古鎮)



【 麗江市の歴史 】

麗江市一帯は戦国時代、七雄の一つ秦国に蜀国が占領されて以降、秦国下の蜀郡に帰属し、前後漢王朝時代もこの行政区が 踏襲される。三国時代には雲南郡が新設され、ここの管轄下に移される。
時は下って、南北朝時代、南朝により遂段県が新設され、このころから納西(ナシ)族が住み着くようになったとされる(現在までこの少数民族は存続している)。 唐王朝の時代、姚州都督府が開設されるも、玄宗皇帝の時代、吐蕃や南詔国に占領され、剣川節度の管轄下として桑川へと改名される。

13世紀後半、中原が南宋王朝末期のころ、大理国の善巨郡となり、最初の本格的な集落が出現する。 この地方を治めていた豪族の木氏の先祖が、自身の本拠地を白沙から獅子山の麓へ移転させ、そこに 集落を形成し始めたとされる。当初、ここは「大葉場」と称された。

麗江市

1253年、フビライ率いる元軍が大理国へ遠征してくる。 木氏の長であった阿宗阿良はすぐにモンゴル軍に投降し、元軍の金沙江渡河を手伝い、 自領内の「大葉場」付近を元軍の集合場所(三軍に分かれて行軍していた)、および軍事教練場として提供する。 その場所は、阿営遺跡として今日にも伝わっている。 当時の古城内は、すでに千以上の戸数があったという。
翌1254年、「大葉場」内に三賧管民官が設置され、茶軍章管民官の管轄下に帰属されることとなる。 このときから、当地の領主であった木氏による世襲統治が開始される(明初の1382年に正式に土司として木氏が任命される)。
1276年、付近を流れる金沙江の旧名称である麗江から命名されて、茶軍章管民官は麗江路軍民総管府へと改名され、 1277年には三跋管民官が通安州(州役所は「大葉場」古城内に開設された)、さらに1284年、麗江路通安州へと改名される。 現在に見られる古城面積は、このころの規模のままである。

明代初期の1382年、通安州知事であった阿甲阿得は元朝から明朝へと帰順先を変える。 すぐに麗江軍民府が設置され、阿甲阿得が明初代皇帝の朱元璋により「朱」の姓から「冠」を外した「木」姓を 下賜されて、木氏として世襲統治を継承することとなった。 翌1383年、当時の領主であった木得は獅子山の麓に麗江軍民府衛署を建設し、ここを役所と定める。 明朝末期になると、水運と陸路交通の要衝であった市街区はますます栄華を極め、この地の地方官(土司)であった木氏の建造した 建造物は華麗なるもので、中国全土の旅行記『徐霞客游記』の明末の著者である徐霞客も、木氏の宮殿は まさに皇帝に互す、とまで驚嘆している。こうした繁栄から、麗江府は別名、富冠諸土郡や府城大研とも呼称されたという。 政治文化も成熟し、木氏の率いる雲南地域の官吏たちは勉学に励み、礼節を貴ぶ様子が伝えられている。

清朝初期の1660年、清朝により麗江軍明府は継承され、木氏の世襲統治が認められる。
しかし、1723年に全国的に地方官の世襲制度が改編され、中央からの任命制が導入されるに至り、 元代から続いた地場地方官の木氏の独裁統治は終焉を迎える。木氏は新たに土通判という位に就任する。
翌1724年、中央政界より最初の麗江流官知府となった揚鉍が派遣される。彼は着任早々、古城の東北部にあった金虹山の麓に 官知府衛門、兵営、教授署、訓導署、そして官府建筑群の周囲には中国式の城壁を巡らせる大工事を開始している。
1770年、麗江軍明府の下に麗江県が増設される。県衛門(県役所)が古城の南門橋の傍らに建造される。
近代に入り、1912年に麗江府制度は廃止され、麗江県のみとなる。このとき、県衛門はもともとあった麗江軍明府の入る麗江府署衛内へと移転されている。 1961年、麗江納西(ナシ)族自治県が成立し、麗江地区もここに帰属された。1997年12月、麗江古城がユネスコ世界文化遺産に登録される。

麗江市

なお、この麗江古城(大研古鎮)であるが、 その初期より城壁は建設されなかった。現在は、北門、南大門、西門など、一部の城門楼閣が保存されているのみである。 ユネスコ遺産登録されているだけあって、かつての古城の姿を大いに楽しめる旧市街を有する。 数多くある中国の古城遺跡の中でも、山西省の平遥古城とともに世界文化遺産に登録されている2古城都市のうちの一つである。


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