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雲南省臨滄市 ~ 人口 248万人、 一人当たり GDP 17,000 元


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  雍郷県城   永寿県城



【 臨滄市の歴史 】

商王朝の時代、臨滄市一帯は「百淮」と称され、佤族、布朗族、徳昂族などのさまざま先住民部族が混在する地域であった。殷王朝を滅ぼした商の武王により、この地域への遠征が決行され、朝貢関係が結ばれて、以後、さまざま献上品が届けられたことが史書に記録されているという。
秦朝、前漢王朝の時代には、哀牢国が建国されていた。前漢の武帝時代の紀元前110年、四川盆地に益州郡が設置され、その下に24県の地方役所が新設されることになる。あわせて、四川盆地~雲南地域に至る「五尺道」と呼ばれる街道が整備され、臨滄市や他の雲南省一帯が中原文化と直接つながるルートが構築される。以後、鉄器やその他のさまざまな文物が四川地域から雲南省へと伝播し、雲南の山岳地域の文化発展に大きく寄与していくことになる。このころに、農耕や牧畜、灌漑、銅・すず、銀などの精錬加工技術なども伝えられたという。

臨滄市

後漢王朝時代の69年、哀牢国王であった柳藐が後漢王朝への帰順を求め、使者を送ってくる。後漢王朝は、 哀牢国王に哀牢国の地(今日の騰冲、龍陵、徳宏州、臨滄地区)および博南(今の永平)2県、さらに、瀾滄郡(益州西部を分割し6県をへと昇格させた)の統治を認める。ちなみに、瀾滄郡はすぐに、永昌郡へと改名され、南朝時代まで存続することになる。その郡役所は不韋(保山)に開設された。

臨滄市

三国時代の225年5月、諸葛亮は南蛮遠征を決行する。このころに鍬やすきなどの農耕器具がこの地域に伝わっていたことが発掘調査で明らかになっている。また、蜀による南蛮平定後、永昌郡に新割譲領域の雍郷県と永寿県の2地域が追加される。両県ともに現在の臨滄市域にあたる。

西晋王朝の299年、永昌郡の郡役所は永寿(今の耿馬)県へと移転される。しかし、この郡県統治体制は、わずか50年後の342年に停止されることになる。それは、このこのから、唐朝の中期に至るまでの数百年間、雲南一帯で群雄割拠と短命王朝が続き、社会が混乱してしまったためである。次なる平和の世は、8世紀初期に南詔国によって雲南地方が統一される(永昌節度が設置された)時代まで待たねばならなかった。南詔国は征服地の人々を保山や大理一帯へと強制移住させ、奴隷(佃人)として農耕作業に従事させる佃人制社会を基礎に構成された。他方で南詔国は度々、四川方面へも侵攻しており、当地の技術者らを連れ去ったり諸文物を奪ったりして、雲南地方での技術伝播を図っていった。このように占領地の人々を奴隷として使役する体制が、南詔国の基幹を支えていたと言える。

一時は唐が設置した剣南道姚州都督府(今の姚安県、664年)や四川成都城を陥落させるまでに攻勢だった南詔国も徐々に衰退し、続いて、段思平により大理国(938年)が成立する。大理国では封建身分制が導入され、引き続き奴隷を農耕作業やその他の労役に従事させつつ、地元の領主の支配権を大幅に認め、その権力を保障する形で君臨する間接支配体制が出来上がっていく。しかし、当時の奴隷たちも自分ら個人の土地の所有をわずかながら認められており、総じて大理国の農業生産高は非常に良好だったという。大理国は以後、300年以上も続き、中原の王朝との交易も継続的に行われ、大いに経済は繁栄を享受した。
大理国の前半期、風慶一帯は永昌節度に帰属されていたが、大理国の後半期には風慶は慶甸となり、永昌府の管轄下とされ、拓南城は鎮康城へと改名されている。さらに1096年、鎮康は金歯鎮の鎮康城と永昌府の慶甸へと分離された。

1254年、モンゴル軍は昆明を占領し、雲南諸郡を定め、その下に蛮部36路、48甸を設置し、それぞれ全てに行政官を派遣して、そのトップに大理金歯都元師統括を置く(臨滄市一帯は謀粘路と景東府に帰属した)。その後も数年おきに細かい行政区や地名変更などがあるも、1390年に明の洪武帝により滅ぼされるまでモンゴル帝国下の大理国(梁王国)が存続することになった。
このモンゴル支配の時代、雲南地方は引き続き、農奴封建体制が維持されていたが、鉱山開発と新農地開墾などで飛躍的に封建領主層の地位が高まっていった時期でもあった。元王朝は、治水灌漑工事を積極的に進めるとともに、今の昆明、曲靖、楚雄、紅河、大理、保山の6地域への大移民政策を進め、ここで屯田開発が大規模に進められていく。この過程で、農奴たちの中でも自立農民へと独立する者も現れ、農奴身分から脱出して、自身で直接、納税する立場になる人々も出始める。彼らは自分で開墾した土地から得られる収入を蓄財し、農奴身分間での新たな貧富の格差が生じることとなった。こうした自立農民の誕生が、元朝支配時代の最も大きな社会的変化として特筆されるものとなる。
臨滄市

1430年6月、この地を統一した明王朝は、景東地区の勐緬と勐梳の地(臨滄市の中心部一帯)に勐緬長官司を設置し、勐卯安託司の管轄下とした。これが1597年に順寧府へと改編されることになる。清時代においてもこの体制が継承され、近代を迎えることとなった。


なお、この臨滄市域での古城跡であるが、基本的には小さな軍営地や駐屯地、県城レベルの小城や施設しかなかったようである。耿馬県自治区、風慶県、臨滄市中心部などに、地名として西門や南門などが残るだけであるが、都市としての城壁というより、軍事施設や行政庁の環濠砦であった感じかと推察される。

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