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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広西省チワン自治区柳州市 ~ 人口 380万人、一人当たり GDP 45,000 元


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  柳州府城



【 柳州市の歴史 】

中原が春秋戦国時代のころ、柳州市一帯には西瓯越や南越らの部族民らが割拠する地域であった。すでに4000年前の環濠集落遺跡も発見されており、人類の生息が相当古くからあったことが分かっている。
紀元前219年、秦の始皇帝により、屠雎を総大将に第一次嶺南遠征軍が発せられる。紀元前214年の第二次遠征軍によって平定されるまで、広西省一帯では5年間にも及ぶ、首領の譯吁宋や桀駿に率いられた西瓯族や越族らとの 戦闘が繰り広げられた。
最終的には秦軍に武力併合され、この地にも秦朝の中央集権統治が導入されることとなる。翌年に設置された桂林郡に柳州市一帯は帰属されるも、実際には山岳地帯の奥地などまで秦側の勢力が及び切れていなかったという。
208年に秦が滅亡し、楚漢戦争で中原が混乱する中、広州を拠点に南越国が建国され、およそ100年近い間、その版図下に組み込まれることとなる。
紀元前112年、前漢王朝の武帝により、路博徳を総大将とする南越国への遠征軍が発せられる。翌年早々に南越国が滅ぼされ、その旧領に9郡が新設される。このとき、柳州市区は郁林郡潭中県(県役所は今の柳州市魚嶺区駕鶴山附近に開設)に帰属された。中原王朝が直接、官吏を派遣して地方統治を実施するのではなく、地元豪族や有力者を行政官に任命し、間接統治の形で地方政治を進める「土司制度」がこのころに採用され、明代、清代に順次、廃止されるまで継承されていくことになる。また、前漢王朝に組み込まれることで、中原との文化的、経済的な交流も活発になっていく。柳州市域でも九頭山にある漢代の墳墓からは漢代の貨幣などが発掘されているという。また、海岸部の合浦等を通じて、東南アジアやインドとの交易が広く行われていたことが分かっているらしい。

三国時代は呉の支配下にあり、その末期の274年、郁林郡から桂林郡が分離、新設される。柳州市一帯は桂林郡潭中県に帰属されるととなった。280年に呉も西晋に降伏し、三国統一が成る。西晋王朝下の282年、潭中県城内に桂林郡役所が移転され、桂林郡の中心都市となる。
また、三国時代において、潭中県より西側、つまり、今の桂西県内に唯一の県城であった定周城(今の宜州市中心部)が廃止され、紅水河流域と今の龍江、融江流域、つまり、今の柳州地区と河池地区の桂西北一帯は完全に郡県城のない空白地帯となっていた。このころ、桂西北地域の少数民族らは半独立勢力であったと言える。


南北朝時代の斉朝(479~502年)のころ、潭中県が分離され、斉熙郡が新設される。 あわせて、桂林郡役所も武熙県城(今の広西象州県の旧市街地)へ移転される。柳州市一帯は引き続き、桂林郡に帰属した。
続く、南朝の梁王朝時代の540年、潭中県は桂林郡から分離・新設された始安郡(郡役所は今の桂林市に開設) の管轄下に移転される。後に馬平郡が新設され、この郡都となる。
隋代初期の591年、潭中県が象州下の桂林県へと改名され、さらにすぐに馬平県へと変更される。 605年、馬平県が桂林郡の管轄下に編入される。そして、さらに607年、始安郡に帰属された。

唐代の621年、馬平県城に昆州の州役所が設置される。なお、後に昆州は南昆州へと改名される(嶺南道に帰属)。このころ、桂州から柳州、さらに邕州へと至る馬車道路(騎道)が整備されたという。 また700年ごろ、桂柳運河が開通し、湘江から漓江、そのまま洛清江から柳州市街地への水上交通路が開通することとなる。南昆州はさらに742年には龍城郡へ、758年には柳州へと改名された後、今日まで継承されていくこととなる。
700年代後半にもなると、唐代の文物が多く浸透するようになり、市内に現存する唐代の元寺遺跡などがその代表例だという。

柳州市

河川交通の要衝となった柳州城には、上流域から多くの材木が運び込まれ、物資の集積地として大繁栄する。また、手狭となった旧城壁の改修工事が進められた。以後ますます発展を遂げ、特に、柳州産の材木は中国全土にその名を轟かせることとなり、柳州産の材木を使用した棺桶がよく知られたことから、「蘇州で衣類を手に入れ、杭州で遊び、広州で食事を楽しみ、柳州で死ぬ」などと言及されたほどである。なお、北宋時代には、王都・開封の宮殿修繕工事の際、この柳州から搬出された杉も多く使われる。唐代~宋代に至るまで、多くの文化人や官僚らもここに住み、その文明発展に大きく寄与したという。南宋の丞相を務めた呉敏をはじめ、王安石、汪伯彦なども好んで柳州に居住したとされる。また、宋代には柳州の市街南部に駕鶴本院という学校が建設されている。
しかし、南宋下の1265年、モンゴル軍の襲来に備え、州官署は柳州城から西北方面の偏离桂邕大道の柳城県へと移転される。ここから元朝末の100年間、柳州の経済的地位は大いに毀損され、衰退期に入る。なお、元朝は軍事用途から陸上交通路であった騎道の整備を重視し、桂林から馬平県城(柳州城)への街道上に馬交換施設として「駅舎(東泉駅など)」を 4カ所設置する。また、水上交通路上にも「駅」が設置されていく。こうした交通網の整備は、後にこの地方の経済振興に大いに効果を発揮していくこととなる。

明代初期の1368年、柳州は柳州府へと改名され、府官署は柳城県城から馬平県城(柳州城)へと再移転される。柳州は、ここに再び行政の中心都市として返り咲き、二州十県を管轄する行政都市となる。
柳州市

1379年、柳州府城の城壁の拡張工事が開始される。城壁は高さ5.5m、城域は東西1.5km、南北は1kmほどとなる。ちょうど今の城中区の南半分から柳江北岸壁までの範囲を占めた。城門は東門、北門、西門、鎮南門、靖南門の5門が設置される。現存している柳州鎮の南門古城壁と清代に建て直された柳州城東門上の楼閣は、当時のままの位置にあるという。ちょうど蛇行する河の湾曲部に位置したため、壺城や龍城とも呼称されたという。
また明代中期には、華南の海岸部と河川交通でつながった柳州府城は、内陸部の多くの特産品がいったん集積される場所となり、華南西部最大の都市として君臨していくこととなる。広州からはポルトガル商人らが柳州へ桐油を買い付けに立ち寄り、欧州へ輸出していったとされる。柳州の名は世界へも響き渡るまでに繁栄を極めたのである。
しかし、明朝の末期、清軍に中原を追われた明皇帝は柳州府城まで逃げ延びてくる。そして、柳州北部や周辺地域で数十年にわたる激しい戦闘が繰り広げられ、柳州経済に大きな打撃を与えることとなった。
柳州市

清朝により南明の抵抗も平定され、再び平和が戻ると、柳州城が広東、貴州と湖南省間の貿易の中心都市となり、再びかつての繁栄を取り戻すこととなる。今の魚峰区太平街の一帯には、多くの環濠都市が誕生する。すなわち、槎山圩、喇堡圩、上汀圩や思浪圩などである。
1732年には、柳州に古州運館が開設され、理柳古(今の貴州榕江県)との間の水路物流や倉庫業を営む業者らを管理することとされる。そもそも柳州が取り扱う商材は、主に華南向けには内陸から産出される木材や食糧などであり、内陸方面へは塩の運搬が主となっていた。物流の拠点はヒト、モノ、カネが集うものであり、街中には大道芸人や工芸品を扱う店舗、また各地の出身者が集う同郷会館なども多く建設されていった。
しかし、清末になり、欧米列強の通商圧力が増し、ついに1887年、広西省では梧州市が開港都市として欧米勢の侵入を許すこととなる。広西省内の商材は西ルートにて珠江を経る輸出が主であり、 この柳州ー梧州間のドル箱ルートに初めて蒸気船が就航されたのが1904年である。 1905年、柳州にて陸亜発の率いる反清運動(広西会党の決起)が勃発し、清軍だけでは鎮圧が困難と判断したフランス軍は自国民の保護を名目に軍を派遣し、柳州に駐屯するようになる。以降、欧米資本や軍がますます内陸部へ侵入するようになる。英国は1907年、梧州ー柳州ルートに定期運航船を就航させ、また翌年にはアメリカ資本が梧州航路に参入、またフランスも軍艦を柳州に停泊させるなどし、内陸部であったはずの広西省は大きく変化を迫られていった。多くの農民は蚕産業や紡績業へと転換していったという。遅ればせながら、1908年には中華資本にて柳州ルートの定期船運航会社が設立されるも、すでに外資による独占航路となっていたため、正式に運行されず解散となる。また、柳州産の材木は電動伐採機の導入もあり、広く広州、香港、上海、天津等へも搬出されていく。その輸送は多くが欧米資本によって独占されたという。


前漢時代の紀元前111年に設置された潭中県城から、馬平県城、柳州城へと続く、2200年以上もの歴史を有する古都である。

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