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甘粛省隴南市 ~ 人口 283万人、 一人当たり GDP 16,000 元


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  武都古城(階州城)
  柳樹城



【 隴南市の歴史 】

7000年前から人類の居住が確認されており、相当に古い歴史を有する地区の一つである。
春秋戦国時代期、西側の大勢力である秦国を形成した人々は、 もともとこの山岳地帯の出身者であったとされている。古くから、中国西域にあった氐族や羌族ら騎馬民族の活動地域であり、 秦国を形成した人々も彼らの流れをくむ一派であったのだろう。

秦国は全国統一後、この地に武都道県(今の西和県洛峪)を新設し、隴西郡に帰属させた。 一帯の山岳地帯は、当時、主に白馬氐族の居住区であったが、以後、多くの漢民族らが移住し、 原住民の文化との融合が進んでいくこととなる。

隴南市

その秦朝も紀元前206年に滅亡し、楚漢戦争を経て紀元前202年、劉邦により前漢王朝が建国される。 しかし、当初、その直轄領は中原一帯のみにとどまり、国力は決して充実したものではなかった。 周囲の異民族や建国の功臣ら、地方有力者らとの緩い連携、もしくは主従関係を構築することで安定が図られる不安定な政権であったと言える(上地図)。

しかし、以降、100年の間に国力は充実し、第七代皇帝の武帝の治世下においては、積極的な対外遠征が繰り返されるようになる。

紀元前111年に中国華南を平定した後、続いて、武帝は西域、南西方面の異民族制圧に乗り出す。
そして平定地には、次々に郡県制が導入されていった。
この一環で武都郡が新設され、武都道県 (今の西和県洛峪)、上禒県 (今の成県の西部)、故道県 (今の宝鶏市南部)、河池県 (今の徽県中心部の北西部)、平楽道県 (今の康県平洛)、沮県 (今の勉県の西北部)、 嘉陵道県 (今の略陽県の北部)、循成道県 (今の成県の南東部)、下辨道県 (今の成県中心部の北西部)の 9県を統括することとされた。すぐに戸籍調査も進められ、この時点で 51,376戸(235,560人)の住民人口が記録されたという。

隴南市

前漢末期の紀元2年、全国に十三刺史部が新設される。このとき、武都郡は益州刺史部の管轄下に置かれた(上地図)。

前漢朝より権力を簒奪し新朝を建国した王莽により、 武都郡は平楽郡(郡役所は今の康県平洛へ移転される)へ、武都県は循虜県へ改称される。

紀元25年に新朝も劉秀により後漢王朝が再建されると、これに対抗すべく、巴蜀の地で勢力を張った軍閥の公孫述も同年、 蜀王を号し、国号を「成家(王都である成都に由来)」とする独立国を建国するに至る。このとき、隴南市一帯もこの 勢力圏に組み込まれており、公孫述により平楽郡は武都郡へ再改名される。
また、郡役所は平楽道城 (今の康県平洛)から下辨県城(今の成県の西部)へ再移転され、管轄下に下辨県、武都道県、上稼県、 故道県、河池県、沮県、羌道県の7県が配された。

隴南市

しかし、後漢朝による隴西郡への軍事侵攻が進められる中、31年には武都郡一帯も後漢朝により奪取されてしまう。このとき、 後漢朝廷は、郡役所を下辨県城から嘉陵江の支流である青泥河の渓谷地帯(今の成県の中心部)へ移転させる。また、所属先も 益州刺史部から凉州刺史部へ変更する(上地図参照)。33年に隴西郡全域が、そして36年に四川省全域も後漢軍に平定され、ついに 後漢朝により中国の再統一が成し遂げられたのであった。

しかし、後漢も末期を迎えると、 地方の軍閥が割拠する時代を迎える。このとき、武都郡一帯は蜀の劉璋の支配下に置かれた。 202年、劉璋により武都郡は分割され、陰平郡が新設される。

魏の曹操により漢中、西涼地方も平定された後、司州が分割され、凉州と雍州が新設される。武都郡は雍州の管轄下に編入された。後に雍州から秦州が分離・新設されると、武都郡は秦州(天水郡が州都)の帰属となる。

隴南市

しかし、219年に漢中郡が蜀の劉備に占領されると、魏領下の陰平郡と武都郡は蜀領に囲まれる形となってしまい、 曹操はこの地の放棄政策を進める。それは、居住民をさらに北の天水郡や扶風へ強制移住させる、というものであった。 これにより、半数以上の人口が流出し、人口空白地と化していく。そして、その郡役所も、下弁(辨)県城へ再移転される。

ついに229年、孔明による第三次北伐の折、姜維と陳式が派遣され、武都郡と陰平郡 は蜀軍にあっさり降伏することとなる。以後、263年の蜀滅亡まで蜀領となる。武都郡下には下辨県(郡都を兼任)、武都県、故道県、河池県、沮県、羌道県の 6県が配された。
下地図の通り、諸葛孔明による第四次北伐に際し、祁山への進軍ルートで、武都郡下の下弁県城を通過していることが分かる。

隴南市

263年10月、鄧艾率いる魏軍は、秦嶺山脈を超えて 武都郡と陰平郡を易々と陥落させ、蜀の主力軍である姜維を撤退に追い込みながら、剣閣で釘付けにする捨て駒作戦で、 蜀の成都へチェック・メイトし、劉禅を降伏へ追い込むことになるのであった(下地図)。


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三国時代を統一した西晋王朝も長くは続かず、すぐに南北朝時代へと移行する。このとき、中原王朝の力が低下したため、西域の少数民族らがその活動を活発化させ、この隴南の山岳地帯には、仇池(氐族の首領である楊茂捜が建国。296年~442年)、宕昌(424年~566年)、武都(443年~477年)、武興(477~552年)、陰平(477年~580年)の 5国が次々と建国されることとなった。これらは総称して、後に隴南五国と呼ばれている。

これらの少数民族国家も華北に勢力を張った北魏により制圧されてしまう。 そして、現在の隴南市中心部(武都区)に武都郡役所が移転されるに至り、新たな城郭の築城が開始される。現在の市街区の西半分を占め、地元で旧城地区と呼称される一帯である。

隋唐の時代、この隴南地区は長らく続いた戦乱から解放され、平和を享受する時代を迎える。
唐の最盛期(開元の治)を築き上げた皇帝の玄宗は、その後半生、楊貴妃を溺愛して政治を怠るようになり、ついに755年、対北方民族戦線を束ねる軍閥の安禄山による反乱を受け、玄宗は蜀への逃亡を余儀なくされる。この乱は763年まで続いた。
こうした混乱下、唐の国力は大幅に低下し、周辺民族からの侵入圧力を受けるようになる。中央アジアを失い(イスラム系の支配下となる)、さらにすぐ西域の吐蕃により、762年、この隴南地区一帯までも占領されてしまう(一時は王都・長安までも占領)。唐にはこれに対抗する力はなく、和睦を模索するだけであった(下地図)。

隴南市

唐末期の892年、武都郡は階州へと改名される。
その後、唐朝は後梁により権力をはく奪され滅亡すると(907年)、各地方軍閥が割拠する五代十国時代が開始される。

100年近い混乱を収拾し、中国を再統一したのは北宋であった(979年)。 北宋は当初、内向的な政策を取り、疲弊した国力の充実に専念することとなる。そして、北宋の第六代皇帝の神宗の時代(1067~1085年)、 外部の異民族への攻撃を再開し、1073年、ようやく吐蕃国を破り、隴南地区一帯の再奪取に成功する。 隴南地区エリアは、実に311年ぶりに中原の漢民族王朝の版図下に再び組み込まれることとなったわけである。

しかし、神宗の六男(第11子)の第八代皇帝(徽宗)とその子の第九代皇帝の欽宗の治世下、 金国(女真族)の南下で北宋も滅亡へと追い込まれてしまう(靖康の変)。

北宋の残党勢力により、欽宗の弟である趙構が担ぎ出され、翌年の1127年に南京(今の商丘市)で即位し、南宋を再興するに至る。 このとき、隴南地区一帯は南宋と金国との国境地帯となり、度々、戦火に巻き込まれることとなる。 特に、南宋は西夏と組んで、西域方面から金国へ度々攻撃を加えている。
当時、武都古城(階州城)は対金国の最前線基地ということもあり、特に重要視されていたらしい。

しかし、100年近く対立した金王朝は、北方のモンゴル軍により蹂躙され滅亡させられてしまう(下地図)。 今度は、南宋とモンゴルとの間での戦闘が開始され、その最前線基地であった武都古城(階州城)も、四川進行の前にモンゴル軍により攻略されるに至る(1236年)。

隴南市

階州城(武都古城)はこのとき激しく荒廃したため、モンゴル軍により武都郡役所が、ここからさらに白龍江を40kmさかのぼった上流域の角弓郷にあった柳樹城内へ移設される。

100年後、その元朝も滅亡し、明国により中国が再統一されると、武都役所は再び階州城内へ戻される。

その後の明清時代でも、隴南地区一帯はさまざまな戦火にさらされることとなった。李自成の決起、白蓮教の乱、イスラム民族蜂起、太平天国の乱など。
清朝が滅亡して、中華民国が建国された後の1913年、階州の地名は武都県へ、後に隴南市武都区へ改名され、今日に至る。

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