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河南省洛陽市 ~ 人口 660万人、 一人当たり GDP 51,000 元


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  【初代】洛陽県城(周王城、成周城、洛邑城、河南県城、三川郡城)
  【2代目】洛陽県城(河南郡城、後漢王都【雒陽城】、【初代】洛州城)
  【3代目】洛陽県城(【2代目】洛州城、河南府城)
  偃師県城
  宜陽県城
  平県城
  平陰県城



【 洛陽市の歴史 】

紀元前18世紀ごろ、夏王朝を滅ぼし、湯王により商(殷)王朝が建国される。このとき、商(殷)王朝は亳の地(今の洛陽市偃師市翟鎮鎮に残る二里頭遺跡)にその王都を開設する。以後、紀元前1260年ごろまでの300年間、商(殷)王朝の王都として君臨することとなる。

紀元前1146年、武王が商(殷)王朝を滅ぼし、西周王朝を建国する。この後を継いだ誦が第2代国王に即位するも、まだ幼少であっただめ、叔父の周公旦が摂政として政治を補佐する。しかし、幼少の国王に対し、殷王室の残党勢力や武王の遺児らが反乱を企て挙兵すると、周公は呂尚、召公奭らと共にこれを鎮圧し、さらに東方各方面の武力平定に成功する。

洛陽市

その直後、東部地域の統制のため、洛邑に東都を設置し、東方鎮定の要とした。これが洛水の北岸に築城された周王城(別名:成周城)である(今の洛陽市中心部の鉄道駅の南側一帯。後に【初代】洛陽城となる)。上地図。
このとき、同時に国王の誦は成人して成王と称するようになる。

西周時代を通じ、洛陽地区は洛邑、新邑、大邑、成周、天室、中国、さらには周南とも呼称された。

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紀元前770年、周の平王は王都を東都であった洛邑へ移転させる(下地図)。以後は東周朝と通称されることとなる。この後、23代の国王がこの王都・【初代】洛陽城(洛邑城は洛水の北岸にあったので「洛陽城」と通称されるようになる)に居住し、500年あまりも中国の首都として機能した。

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紀元前249年、第30代秦国王である荘襄王(秦の始皇帝の父親)は、魏、韓、趙を攻め、さらに中原へ進出して、東周王朝を滅亡させるに至る。このとき、東周の王都であった【初代】洛陽城跡に三川郡役所が開設される。
そして、紀元前221年、始皇帝により完全なる中原統一が成る。

しかし、その秦朝も紀元前206年に項羽により滅ぼされる。項羽は自身の部下であった申陽を河南王に封じ、この地域一帯を統括させた。河南国の王都は洛陽城内に開設される。

洛陽市 洛陽市

紀元前202年に前漢朝を建国した劉邦は、当初、その王都を洛陽の地に定め、新たな城郭工事に着手する(上地図)。これが後に【二代目】洛陽城(今の洛陽市偃師市古城村一帯)となるわけであり、それまでの【初代】洛陽城は河南県城として再利用されることとなる。下地図。
しかし、間もなく王都は長安へ移転される。築城途上であった【二代目】洛陽城内には、河南郡(三川郡より改称)の郡役所が併設され、郡の中心都市として機能することとなった。

このとき河南郡は、洛陽県(新洛陽城)、河南県(旧洛陽城内には新設された県役所)、偃師県、緱氏県、平県(偃師県の西北部)、平陰県(孟津県の東北部)、新成県(伊川県の西南部)、榖成県(洛陽市新安県の東部)および鞏県、滎陽県、新鄭県、中牟県、開封県などの22県を統括した。

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前漢第七代皇帝の武帝の治世下の121年、全国に十三州部刺史が設置される。このとき、河南郡都であった【二代目】洛陽城内に司州役所も併設されることとなる(下地図)。

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前漢朝より権力を簒奪した王莽の新朝の治世下、洛陽は宜陽へ改名され、東都と中市の行政庁が併設される。その新朝の統治も長くは続かず、25年に後漢朝により滅ぼされる。

後漢初代皇帝となった劉秀は【二代目】洛陽城に王都に定め、洛陽を雒陽へと改名する。 39年には、河南郡が河南尹へと改称される。引き続き、河南尹役所は【二代目】洛陽城内に併設された。
後漢時代中期の140年の統計によれば、河南尹には208,486戸、1,010,827の人口があったことが記されている。

220年、その後漢朝も魏の文帝曹丕により権力禅譲が強行され滅亡に至る。曹丕は魏国の王都を、それまでの許県城から洛陽城に定め、地名も雒陽から洛陽へと戻す。また司州が司隷校尉部へ改称される。下地図。

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その魏も、265年に西晋を建国した司馬炎により権力簒奪され滅亡する。西晋は同じく洛陽を王都とした。


東晋時代、かつての王都であった洛陽は中京と改称される。南北朝時代下、東晋朝から権力禅譲された宋朝の武帝、文帝、明帝の治世下まで継承された。

しかし436年、北朝側の北魏が南朝の宋から黄河流域一帯を奪取し、その勢力圏に組み込む。この直後、洛陽城内に洛州役所が開設された。
第6代皇帝の孝文帝は急激な漢化政策を進め、494年には、王都を平城(今の山西省大同市)から洛陽へ遷都する。
この後、北周朝の時代に洛陽は東京へ改名され、6つの府役所が同時併設されたので、東京六府と通称されるようになる。

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南北朝時代を統一した隋初代皇帝の文帝の治世下、洛陽に東京尚本省(後に河南道行台省、洛州刺史領総監へ改称)が設置される。
第2代皇帝の煬帝が即位すると、王都を大興城(長安)とし、その副王都として洛陽を東都と定め、新たに城郭都市の建設を開始する。605年、前漢時代より君臨してきた【二代目】洛陽城の西9kmの地点で築城工事が着工される。上地図にある【三代目】洛陽城の誕生である。

ここに、洛州の州役所が開設され、河南県、洛陽県、偃師県、緱氏県、閿郷県、桃林県、陕県、熊耳県、渑池県、新安県、鞏県、宜陽県、寿安県、陸渾県、伊闕県、興泰県、嵩陽県、陽城県などの18県を統括することとされた。

唐代も引き続き、【三代目】洛陽城は東都と称され、副王都に指定される。

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621年に洛州総管府(713年、河南府へ改称)が開設され、洛州、鄭州、熊州、榖州、嵩州、管州、伊州、汝州、魯州の9州、及び、洛陽県、河南県、偃師県、緱氏県、鞏県、陽城県、嵩陽県、陸渾県、伊闕県の9県を統括した。

唐第3代皇帝の高宗の皇后であった武則天(武后)が40年近く女帝政治を執る。 684年には東都を神都とし、大規模な城郭拡張工事を進める。このとき、明堂や万国天枢などが建立された。下絵図。

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690年には、武則天(武后)は自ら帝位に就き、国号を「周」とし、王都を【三代目】洛陽城に定める。この王朝は後世、武周と通称されることとなる。仏教を厚く保護し、龍門石窟や奉先寺の盧舎那仏などが建立されたのもこの頃である。

また、唐の玄宗皇帝も洛陽に長く滞在し、仏教寺院などや佛塔などの建立を積極的に進めた。
下は、唐朝末期の洛陽城の様子。

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最終的に907年、唐は滅亡し、中原一帯には後梁、後唐、後晋、後漢、後周の短命な5王朝が誕生する、五代十国時代が始まる。その中で、後梁、後唐、後晋は洛陽を王都とし、後漢と後周は洛陽を副王都に定めた。この時期、中原の政治、経済、文化の中心都市として洛陽は大いに繁栄したという。

宋代には、洛陽は西京となり、河南府役所が併設される。
宋朝廷により国子監が洛陽城内に設けられると、多くの家臣や元老、学者、文化人らが集う場となった。趙普、呂蒙正、富弼、文彦博、欧陽修などが洛陽の地に居を構えた。その他、理学家の程氏兄弟、邵雍なども足跡を残している。他方、洛陽城内では有名な私学校が多数、開設された。また、この洛陽城内で司馬光が歴史書の名著とされる『資治通鑑』を書き上げている。

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金国による華北統治下、洛陽は中京へ、河南府は金昌府へ改称される。あわせて、河南県が洛陽県へ吸収合併されることとなる。このとき、洛陽城の城内は長年の戦火で荒廃が激しく、再建が必至の状態であった。
このため、金朝により、隋唐代に建設された城の北東部分の一角を利用して、新たに城郭が築城される(下絵図)。その城壁は周囲4.5km程度のものであった。現在の洛陽市街地の前身にあたるもので、隋唐代に建設されていた洛陽城のほんの一部に過ぎない小規模な城郭となった。

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元代以降、城域が大幅縮小された洛陽城は「京」と呼称されることもなくなり、河南府の府都として機能するだけとなる。

明代、河南府は洛陽県、偃師県、鞏県、孟津県、登封県、新安県、渑池県、宜陽県、永寧県、嵩県県の10県を統括した。明代初期には、伊王や福王が封じられ、一時的に王都が開設された。

清代も洛陽城は河南府の中心都市として君臨した。

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中華民国が建国された1912年、河南府が廃止され、河洛道が新設される。道尹公署(道役所)が洛陽城内に開設され、洛陽県や偃師県など19県を統括した。 1923年には河南省の省都とされる。1932年に日本軍が上海へ上陸すると、国民党政府は洛陽を首都に定める。

華北の大部分が日本軍の手に落ち、洛陽は北方における抗日戦線の最前線基地となる。
1939年秋に首都が南京へ再移転されるに至り、洛陽は再び、河南省の省都に戻された。


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