BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



マカオ 特別行政区 ~ 人口 67万人、 一人当たり GDP 80,000 USD


 ➠➠➠ マカオ内の 城跡リスト ➠➠➠  クリック

  ギア要塞(東望洋炮台)と ギア灯台、ギア教会
  国連大学国際ソフト技術研究所の洋館 と 斜面下の教会墓地(白頭墳場)
  ポルトガル政庁設置の 国境ゲート(關閘)跡
  【豆知識】司打口 ~ 明代、清代に ポルトガルが 公的にアヘン輸入していた 港湾地区 ■■■
  青洲(中国ーマカオの国境 最前線だった小島。今は陸続き)と 紅街市(Red Market)
  セナド広場(議事亭前地)と聖ポール教会(大三巴牌坊)、仁慈堂大楼
  モンテ砦(大炮台)、ドナ・マリア二世砲台遺跡(馬交石炮台)
  ナーチャ廟(大三巴哪吒廟)、ポルトガル南岸居留区時代の城壁跡(舊城牆遺址)
  関帝廟(三街会館)、盧家大屋、変愛巷(古民家通り)
  民政總署ビル(民政總署大楼)、聖ローレンス教会(聖老楞佐教堂)
  聖フランシスコ庭園(加思欄花園)前の砲台遺跡(嘉思欄炮台)
  聖ラザロ教会(望徳堂坊)、聖ラザロ教会(望徳聖母堂)、聖ドミニコ教会(玫瑰聖母堂)
  媽閣廟と媽閣砲台遺跡、西望洋山、主教山小堂(西望洋聖堂)
  竹仔室總督官邸(マカオ総督府)と 港務局大楼
  聖母砲台遺跡(燒灰爐炮台)と 望廈砲台遺跡(望廈炮台)、聖地牙哥砲台遺跡
  蓮峰廟(林則徐紀念館) ~ アヘン戦争前に 林則徐がポルトガル側と会談した地
  サン・ジョセ修道院聖堂(聖若瑟修院及聖堂)と 聖アントニオ教会(聖安多尼教堂)
  リラウ広場(亞婆井前地)、聖オーガスティン教会(聖奧斯定教堂)
  タイパ住宅博物館(龍環葡韻住宅式博物館)と タイパ・コロネア歴史博物館
  タイパ砲台遺跡(氹仔炮台)



【 マカオの歴史 】

4000~5000年前には、すでにこの珠江の河口エリアで人類の生息が確認されているという。長く百粤の地と蔑視されてきた現在の 広東省一帯(華南地域)では、春秋戦国時代下の中原地方の 遺物(玉器や 石器、石斧など)が各地で発掘されており、当時すでに中原地方の人々との交易があった証左となっている。

紀元前 214年、この 嶺南地方(現在の広東省一帯)も秦の始皇帝により武力併合され、翌紀元前 213年、この地域の直接統治を目的として 南海郡、象郡、桂林郡の 3郡が新設される。このとき、マカオ地域は南海郡下の 番禺県(今の 広東省広州市)に帰属された。

時は下って東晋時代の 420年、南海郡から分離され 新会郡(郡役所は盆允県城 ー 現在の 江門市蓬江区 北杜阮鎮)が新設されると、現在のマカオ地区は新会郡下の 封楽県(435年に新設)に統括される。

589年、南朝の陳政権を滅ぼした隋朝により南北朝時代に終止符が打たれると、翌 590年、新会郡が廃止され南海郡へ再吸収される。
以後、マカオ地区は南海郡下の 宝安県(今の 広東省深圳市南山区)に帰属された。
唐代の 757年、宝安県が廃止されると、代わりに新設された 東莞県(今の 広東省東莞市莞城区)にそのまま属する(下地図)。

マカオ

南宋時代初期の 1152年、東莞県から分離されて 香山県(今の 広東省中山市)が新設されると、マカオ地域はこれに属した(そのまま南海郡に帰属)。

その南宋朝も 1276年、モンゴル軍により 王都・臨安(今の 浙江省杭州市)を占領されると、亡命政権を打ち立てた 宰相・陸秀夫や 名将・張世傑らが幼い 祥興帝(7歳)を伴って、福建省より海路を伝い、華南地域(マカオ周辺を含む)へ逃亡してくる(下地図)。
これに随行する形で、数十万にも上る数多くの避難民や軍人らも南下することとなり、最終的に 1279年、亡命政権も崖山の戦いで全滅すると、ちょうどこの混乱の直後より、マカオはじめ華南地方一帯に、中原からの避難民残党らの集落地が数多く形成されていったという(客家の誕生)。

マカオ

モンゴルにより樹立された元王朝の治世下、広州路(路役所は 広州城 内に併設)に統括された。

明代も引き続き、広州府に属する。
1553年、日本を含む東アジア交易の拡大を企図するポルトガル人らが、船荷物が水没してしまったことを口実に上陸してくると、暫定的にマカオ滞在を許可される。この時、その居留区画はタイパ半島の南岸部の狭い範囲に限定されていた。
ポルトガル人はここで長期的な拠点構築を目指し、南岸エリアに商館や教会の建設に乗り出す。以後、ポルトガル人はより長期の居留権を確保すべく、度々、明朝へ請願を提出することとなる。彼らは明軍の倭寇戦や 満州での対後金戦に加勢し、信用を売りながら、他方で明の官吏らに賄賂を払い、買収工作を進めていったという。

マカオ

1557年、ついに明朝から長期的な居留権が付与される。ただし毎年、白銀 500両を 明朝政府(後に清政府)へ土地の租借料として納付していくことを約される。
これに伴い、明朝は マカオ半島(コタイ)から 10 km北側に広東省直轄の 軍事基地(前山寨城)を建設し、監督行政を強化していくこととなった。引き続き、ポルトガル人の居留区画は、コタイ半島の南端のみに限定されていた。

1583年、マカオ在住のポルトガル人らによりマカオ市政議会が設置され、マカオ居留区内の自治経営を実施していくこととなる。

マカオ

他方、ポルトガル、スペインの絶対的支配圏だった東アジア貿易への参入を狙い、イギリスやオランダが新規参入の機会を虎視眈々と伺っていた。

ついに 1622年、オランダがイギリスと連合してマカオを攻撃する(下絵図)。 しかし、装備や兵力で圧倒的に勝ったオランダ軍は大敗を喫することとなり、イギリスとの連合も手切れとなり、仕方なく澎湖諸島の占領へと駒を進めたのだった

マカオ

翌 1623年、ポルトガル政府(インド・ゴア政庁)はマカオ居留地の直接統治と防衛強化を企図し、はじめて行政官僚を派遣する。こうした フランシスコ・マスカレニャスが現地赴任し、初代マカオ総督として就任する(1626年帰任)。それまでは、インド・ゴア植民地政庁との間を往来する商船の船長が、コア側の意向を伝える役割を担うだけであった。

マスカレニャスの現地着任後、すぐにマカオ提督官邸の建設と、大炮台(モンテの砦)の 工事完遂(1617年~建設中)が急ピッチで推進されることとなった。いちおう、勝手な軍備増強を警戒する明朝の介入に配慮し、各砲台の建造は中国国境の警備強化やキリスト教会独自の宗派対立を想定した防衛施設という建前をとっていた。

マカオ



 アヘン交易に手を染めた ポルトガル

柯邦迪前地、ポルトガル語では ポンテ・エ・ オルタ広場(Praça de Ponte e Horta)と呼ばれる路地広場(横 40 m×縦 105 m)が、マカオ半島(コタイ)西岸の港湾地区にある。かつては「司打口」と通称され、ポルトガル人らがここマカオを拠点にアヘン交易に手を染めた中心部となっていた場所である(下地図)。

なお、ポルトガル語名の ポンテ・エ・ オルタ(Ponte e Horta)とは、86代目・駐マカオ総督の名前で、その最後の三文字を 中国名風「柯邦迪」に漢訳したものとなっている。

マカオ

マカオでのアヘン輸入は、この明代の入植早々から既にスタートしていた。
未だ一時滞留許可が下りただけだった初期から、その記録が残されているという。「アヘン 1 kg = 価格 銀 2本」という項目が 1589年のマカオ税関帳簿の中に記載されており、最古のデータとされる。

続く清代の税関記録からも、その輸入実態が確認されている。清代初期の 1662年、年間(白銀)500両の輸入高が、 1667年には 10,000両、1671年には 100,000両とうなぎ上りに上昇していったという。
マカオのポルトガル政庁は、まさに公的なアヘン貯蔵と中継貿易拠点として機能した実態が克明に記録されていたのだった。

鄭氏台湾との対決から、1655年に発布していた海禁令も 1684年に解除されると、マカオを経由したアヘン輸入量はますます増加することとなった。 1692年、年間の輸入されたアヘンは 1,000箱を越えるようになる。

しかし、このアヘン輸入の激増をもたらせたのは、ポルトガル商人ではなく、インドを植民地として供給源を独占するイギリス商人であった。
駐マカオのポルトガル政庁の税関帳簿から、この事実を確認することができるという。

それまでの直接的表現であった「アヘン」という商品項目は消滅し、代わって「特殊たばこ税」「洋薬税」という項目が激増していく。こうしてイギリス商人によって持ち込まれたアヘンは、マカオのポルトガル政庁で正式に「輸入たばこ」「洋薬」として通関処理されることとなり、ポルトガル側はその関税収入を恒常的に得ていく、という構図が確立されたのだった。

マカオ

当時、マカオからの輸入品課税はポルトガル政庁が清朝の代理機関として手続し、必要な関税を清朝に納付する間接処理方式が採用されていた。しかし、実際には大部分の関税はごまかされ、少額のみ清朝に 申告・納税され、ほとんどはポルトガル政庁が自らの懐に入れていたのだった。
この間接納税方式が、イギリス商人とポルトガル政庁との蜜月を生む下地となってしまったのだった。

また、そのマカオ政庁直轄の税関役所と倉庫は、マカオ半島(コタイ)西岸の埠頭エリアのやや高台に設置されていた。
この時代、マカオの港湾エリアのふ頭は、ほぼすべてが商人や漁師、庶民らが勝手に敷設したもので、全く公的管理の行き届かない、雑多な簡易船着き場の寄せ集め地帯となっていた。その中の一つが「司打口」と通称された船着き場で、「凹」字型に設計されていたという。ちょうど現在の聚宝街と蓬莱新街との交差ポイントに位置していた。
この「司打口」だけは、ポルトガル政庁の管理下にあり、凹型の両岸には 倉庫(公栈や官栈と通称された)が設置され、中央部の一段高い石階段上に大きな建物が建てられ、ポルトガル人役人や兵士らが関税手続を進める役所施設となっていたという。
この「司打口」で、輸入登録と税関手続を経た商品が正規ルートとして中国大陸へと搬入できたわけであり、すべてのアヘン貿易もここで手続が行われていた。

マカオ

アヘン等の積み荷を積んだ商船は、海外から中国の南部へ到達すると、十字門の海峡を経て、このマカオ半島の南側の湾上にいったん停泊する。そして、小型船に積み替えて、半島西湾の媽閣を経由し、「司打口」ふ頭へと運び込まれていた。

いったん積み荷が陸揚げされると、アヘン商品は暫定的に 倉庫(公栈)内に留め置かれ、納税処理を待つ。輸入申請者が税関事務所で必要な登録と納税を済ませると、ポルトガル政庁の役人が荷物の箱上に納税済の印鑑を押印する。こうして納税済証明が発行されると、いつでも倉庫から持ち出せることとなり、アヘン商品が合法的に大陸中国へ持ち込まれるのだった。
このマカオ唯一の公的なアヘン貯蔵倉庫である公栈の正門は紅窗門街にあり、また後門は小さな河川沿いに設けられていた。アヘンが司打口のふ頭に運び込まれた後、この後門から公栈内に運び込まれ、通関手続終了後、公栈の正門側から搬出される仕組みだったという。
正門前の紅窗門街と三巴仔横街沿いには、 出てきた荷物を引き受ける 運搬人(苦力と呼ばれた)らが控えており、荷物を回収後、すぐに船へ運び込み、再びコタイ半島の南側を回って、南湾上で船に積み替え、広州まで船で輸送していたのだった。

なお、この積み荷に押印された通関済スタンプの発音が、広東語で「司打」と発音されたことから、中国人らの間で「スタンプを押す凹型の 船着き場=司打口」と通称されていったと考えられている。
または、かつて古代中国では課税当局のことを「司打署」、また納税済の証書のことを「司打紙」と通称した時代があり、その漢字が当てられた、とも指摘されている。

マカオ

ついに 1729年、アヘンの蔓延を問題視した清朝は 禁烟令(アヘン禁輸令)を発令すると、マカオのポルトガル政庁が司った「洋薬」輸入税收と通関業務が停滞することとなり、司打口のふ頭は一気に静まりかえってしまったという。
しかし、ポルトガル政庁はこうした濡れ手に粟の税収を手放すにはあまりに惜しいと考えるのは自然なことで、海外のアヘン商人らと結託し、清朝の官吏らを買収して、アヘンを引き続き、マカオ港に輸入し続けたのだった。
その結果、司打口のふ頭一帯は 1年を待たずして盛況を取り戻し、清朝の禁烟令が実施されて 3年後には、司打口の税収を以前のレベルを回復してしまう。

また他方、大陸中国においても、既にアヘン需要は非常に高められており、地方の役所に至るまで「洋薬」税収にたかる官吏らが巣くうまでになり、 1736年に乾隆帝が 6代目皇帝に即位すると、その直後に朝廷自ら禁烟令を廃止してしまうまでに腐敗が進んでいたのだった。こうしてマカオからのアヘン輸入は途切れることなく、増加の一途をたどる。

続いて 1796年、7代目皇帝として嘉慶帝が即位すると、再度、禁烟令が発布され、アヘン貿易が禁止される。1800年には国内でのケシ栽培も禁止される。しかし、アヘン貿易を司る地方役所や官吏らはその収益源が捨てがたく、買収された上で輸入が続けられることとなる。

特にマカオでのポルトガル政庁は特殊な立ち位置にあり、 1802年以降は、そのポルトガル商人のフリをした外国の商船団が次々とアヘンを広州港へ搬入するようになっていたという。すべてマカオで通関済ということで、合法的な輸入品として押し通されたのだった。
このため 1800年代前半は、ポルトガル国旗でカモフラージュしたアヘン密輸商人らが大規模に跋扈するようになっていた。
マカオ

そして、ついに 1840年にアヘン戦争が勃発する。
その前年の 1839年9月3日、広東省の沿岸部の防備網を視察していた 大臣・林則徐がマカオ半島を訪問すると、 当地の清朝直轄の マカオ統括役所(望厦村に設けられていた「香山県分防マカオ県丞」衙門)内でポルトガル政庁の総督と面会し、アヘン取引の禁止と、英国と深まる対立の中、ポルトガル側は中立を守ることなどを確約させる。望厦山の麓に残る県丞衙門の役所跡地には現在、彼を祀った 蓮峰廟(下写真)と共に林則徐博物館が設けられている。

マカオ

しかし、対英アヘン戦争の結果は清朝の大敗に終わり、1842年の南京条約でアヘン取引が公認されると、合法的な輸入管理の窓口として機能したマカオの司打口のふ頭は、完全にその独占機能を失われることとなるも、中国内での流通が合法化されたことを受け、マカオで通関されるアヘン商品量はむしろ、増加される結果となった。

1849年にマカオの独立を勝手に宣言したポルトガル政庁は、ついに 1862年、清朝の通関代理業務も放棄し、すべての通関収益をマカオ政府の 100% 歳入と勝手に決定してしまう。

マカオ

以後も、アヘン取扱い量は増加の一途をたどり、司打口と 倉庫(公栈)の敷地面積は限界となっており、また、この界隈は狭苦しい路地と薄汚い小屋がひしめき合って衛生環境は劣悪を極めていた。
1866年当時、マカオ総督に着任したばかりだったオルタは、この司打口の港湾地区の大改修に乗り出す。
司打口のふ頭は周囲に建物が立ち並び過ぎ、また、湾岸下の土砂堆積もあって、船着き場としての機能も失われつつあったため、旧ふ頭の埋め立てが決行される。海岸線が西へ延伸され、新しい港湾ふ頭が建設されたのだった。ちょうど、現在の比厘喇馬忌士街の大豊倉がある場所と、南舢舨船着き場の中間地点の空き地部分がこれに相当した。
そして、旧ふ頭の埋め立て工事で誕生した広場は、1869年7月26日、工事を手掛けたオルタ提督の功績をたたえて 柯邦迪前地(Praça de Ponte e Horta)と命名されることとなる。

それから数十年もの間、倉庫(公栈)の建物は増設に増設を重ね、現在の 火船頭街、群興新街、夜呣街あたりに続々と倉庫が連なるようなる。まさに、 この並びは アヘン保管倉庫、精製工場、そして売買取引所の一大拠点となっていたのだった。1880年代にポルトガル政庁の通関役所もこの倉庫街に移転されてくる(先の柯邦迪前地に残る石段上から)。

マカオ

1925年、公栈(倉庫群)がさらに拡大される。
今の群興新街と 安仿西巷との間に新たに街道が建設されると、公栈巷(Travessa do Ópio)と命名され、公栈への荷物搬入に大幅な利便性向上をもたらせた。

1933年、ポルトガル政庁は「アヘン交易に関する条例」を発布し、アヘン取扱い事業者への認証制度を新設するも、1935年、ついにアヘンがおひざ元であるマカオ市民らにもたらす弊害を見過ごすことができなくなり、アヘン流通の厳格化が制度化され、あわせて、薬物中毒に関する治療の研究が着手される。
最終的に第二次大戦後の 1946年、マカオでアヘンの吸引、輸入が全面禁止されることとなるのだった。

アヘン禁止となって以降、増設され過ぎた 公栈(倉庫群)は供給過剰となり、一般貨物の倉庫や 金属加工工場、学校等へと改修されていくこととなる。
その中間部に誕生した空地は公共広場へと改修され、そこでは中国伝統の舞踊や 茶屋、飲み屋などが開設され、日々、にぎやかな場所となったという。

マカオ

1980年代までに大部分の 公栈(倉庫群)は撤去されてしまい、さらに住宅用マンションなどへの改築が進められていく。こうした過程で、かつての産業道路だった公栈巷も消滅することとなった。

1989年、ポルトガル政庁は再び、オルト広場(かつての旧ふ頭地区)の再整備に着手し、空地の中央部に道路を敷設して「日」型の台形へと改修している。
1992年、マカオ文化局はこのオルト広場をマカオ文化遺産の一つに指定した。



なお清代、マカオ半島や周囲の島嶼部は行政エリア的には、広肇羅道(道役所は 肇慶古城 に設置)に帰属しつつ、広州府(現在の広州市)下の 前山寨城(現在の 珠海市香州区)に直轄されていた。

マカオ

マカオ地区(コタイ半島南岸一帯)では 1557~1700年代中期にかけて、ポルトガル人の入植者数が増加の一途をたどり、ポルトガル中央政府も無視できない規模となっていた。
ついに 1783年、ポルトガル女王が勅令を発し、マカオ市政議会の権限は大幅に縮小され、ポルトガル中央政府が派遣するマカオ総督の権力がさらに強化されることとなる。

アヘン担当最高責任者(欽差大臣)の 林則徐が 1839年正月に広州に赴任すると、早速、広東省一帯の視察をスタートし取締を進める。9月にマカオ地区を訪問すると、最前線の マカオ統括役所(望厦村に設けられていた「香山県分防マカオ県丞」衙門)でポルトガル代表団と面会し、さらに南側の媽閣廟の岬部分まで足を運んでいる(下地図は、この時の林則徐一行の訪問ルート)。

マカオ

翌 1840年末、ついにイギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発すると、ポルトガル政庁は中立し戦局を見守るも、1842年に南京条約により清朝の大敗で決着すると、未だ防衛や統治システムが復旧されていなかった マカオ半島(コタイ)の村々との間でいざこざを起こすようになっていく。
さらに大砲を伴って、清軍が開設していた 国境ライン・関閘 を襲撃し、そのまま 現在の広東省珠海市香洲区 へも侵犯を繰り返したのだった。
清側の守備隊はなすすべなく、マカオ地区での軍事的支配権を失うこととなった。

1846年、フェレイラ・アマラル総督が現地に着任すると、即刻、コタイ半島南岸のポルトガル人居留区内に開設されていた清朝の税関や役所を強制閉鎖し、その官吏らを追放する。
さらに、コタイ半島の北部に広がる中国人集落地を貫通する街道整備を進め、随時、中国人村落にある田畑や墳墓を破壊しては住民らとトラブルを引き起こしていた。さらにひどい場合には、現在の広東省珠海市香洲区 前山鎮の住民らともトラブルを発生させていたという。
こうしたポルトガル人らの横暴に激怒した 望厦村(コタイ半島の中心部)出身の 農民・沈志亮によって、1849年、アマラル総督が刺殺される。

これを口実に、ポルトガル政庁はコタイ半島の 最大集落「望厦村」へ報復攻撃をしかけ、同村に開設されていた清朝の マカオ統括役所(「香山県分防マカオ県丞」衙門)をも強制閉鎖し、そのまま勝手にマカオ独立を宣言してしまうのだった。
決定的に修復不能となった清ーポルトガル間の対立は、さらにポルトガル側を暴走させ、 1851年にはタイパ島を、1864年にはコロアネ島を、1867年には沙梨頭と沙巖などの 村々(清国境の付近 ー コタイ半島の北側へ勢力拡大を図る)、 1879年には龍田村を武力占領していくこととなった。

マカオ

ついに 1887年、清ーポルトガル間で友好通商条約が締結され、マカオ地域でのポルトガルの永久主権が確定される。
以降、清側は 拱北口岸(關閘)を開設し、ここで自国の入境管理を実施することとなった(ポルトガル側は、すでに 1874年に国境ゲートを建設していた)

マカオ

ポルトガルによる割譲後、ポルトガル系住民らは常にマカオ政界や財界で特権的な地位を保有することとなり、中華系市民の間で不満が蓄積されていった。

時は下って 1966年12月3日、タイパ学校騒動を引き金とする「一二·三事件」が勃発するなど、中国共産党のバックアップもあり、反ポルトガル運動が活発化してくる。
1986年より始まった 中国・ポルトガル間での返還交渉の末、1999年12月20日に中国返還が成る。


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