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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



マカオ特別行政区 ~ 人口 55万人、 一人当たり GDP 80,000 USD


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  モンテの砦(大砲台)
  ポルトガル政庁設置の国境ゲート跡



【 マカオの歴史 】

4000~5000年前にはすでにこの地域で人類の生息が確認されている。域内では、玉器や石器、石斧、春秋戦国時代下の中原の遺物などが発掘されているという。長く百粤の地に分類され、珠海や広州香山県一帯と同じような文化圏を形成していたと考えられている。
紀元前214年、嶺南地方も秦国により併合され、翌年、この地域に南海郡、象郡、桂林郡の3郡が新設される。このとき、マカオ地域は南海郡番禺県に帰属された。
晋朝時代の420年、マカオは南海郡から分離・新設された新会郡下(郡役所は盆允県城ー現在の江門市新会区北杜阮鎮)へ移設され、この下の封楽県(435年に新設された)に属することとされる。
隋代の590年、新会郡が廃止され南海郡へ再吸収される。以後、マカオ一帯は南海郡下の宝安県が管轄することとなる。
唐代の757年、宝安県も廃止され、広州南海郡下の東莞県に帰属される。

南宋初期、マカオ地域は広州南海郡下の香山県に属した。南宋末期の1276年、モンゴル軍により首都・臨安が陥落すると、多くの避難民や軍人らが福建省より海路、中国華南地域(マカオ周辺を含む)へ押し寄せる。その数は数十万にも上ったとされる。その中には、名将・張世傑らの亡命政権も含まれていた。最終的には、幼い皇帝と重臣の陸秀夫は海へ投身自殺し、張世傑ら残党は海路、ベトナムへの逃避を図るが、嵐により船団は沈没し、ここに南宋は滅亡する(1279年)。ちょうどこの混乱の最中、マカオはじめ華南地方一帯に中原からの避難民らの集落が数多く形成されていったという。

マカオ

元代、これらの地域は広東道宣慰司広州路(役所は広州城内に開設)に帰属された。
明代には広州府に属する。
1553年、ポルトガル人がマカオ・タイパ半島の南岸部に商館や教会を建設し、居留を開始する。 1557年から、ポルトガル人による居住権付与の請願が度々、明朝へ提出される。これに伴い、明朝はマカオ・コタイ半島に広東省直轄の官府を設置し、行政監督を強化した。
当初、ポルトガル人たちの居住区域はコタイ半島の南端のみに限定されていた。 1583年、マカオ在住のポルトガル人らによりマカオ市政議会が設置され、マカオ居留区内の自主経営を実施することとなる。ただし、毎年次、白銀 500両を明朝政府(後に清政府)へ土地の租借料として納付していくこととされた。

マカオ

明末の混乱の最中であった1623年、ポルトガル政府が任命した第二代マカオ総督D.Francisco Mas Carenha が初めてマカオに赴任してくる。彼の最初の任務は、その官邸の建設と大炮台(モンテの砦)の工事完遂(1617年~建設中)であった。この前年の1622年、オランダが東アジア交易港の簒奪をもくろみ、イギリスの協力でマカオを攻撃している(下絵図)。
オランダはこれに失敗し、最終的に東へ移動し、台湾島を占領することとなる。

マカオ

1783年のポルトガル女王の王政宣言により、市政議会の権限は大幅に縮小され、ポルトガル中央政府が派遣するマカオ総督の権力が大いに強化される。

清代には広肇羅道(道役所は肇慶古城に設置)の広州府(府役所は広州城に開設)が直轄した。
一方、マカオでは、1557~1700年代中期にかけて、ポルトガル人の入植者の数は増加の一途をたどる。
1840年、英国と清国との間でアヘン戦争が勃発すると、ポルトガル軍は英国に味方し、大砲を伴って清側の国境であった関閘を攻撃し、珠海市の拱北地区へ進入する。清軍は撃破され、以後、マカオ地区での軍事的支配権を失うこととなる。

マカオ

1846年、フェレイラ・アマラル総督が就任すると、駐マカオ清朝税関や官庁を強制閉鎖し、その官吏らを捕縛・追放するなど、マカオ政庁の権益強化を図っていく。さらに、マカオ市街区に馬車が走れる馳道(街道)の整備を進め、度々、清側の珠海地区へ踏み込んでは、前山地区の田畑や墳墓などを破壊して回り、清軍とのいざこざを煽ったという。これに激怒した望厦村(コタイ半島の中心部)出身の農民・沈志亮によって、1849年、アマラル総督が刺殺される。これを機に、ポルトガルは再度、清国との戦争をしかけ、1849年内にもマカオ望厦村を占領する。続いて、1851年にはタイパ島を、1864年にはコロアネ島を、1867年には沙梨頭と沙巖などの村々(清国境の付近ーコタイ半島の北側へ勢力拡大を図る)、 1879年には龍田村を占領していった。

マカオ

ついに1887年、清ーポルトガル間の友好通商条約に基づき、マカオ地域でのポルトガルの永久主権が認められる。清側は拱北口岸を開設して、ここで自国の入境管理を実施することとなる(ポルトガル側は、すでに1874年に「国境」管理局を設置していた)。
ポルトガルによる割譲後、ポルトガル系住民らは常にマカオ政界や財界で特権的な地位を保有することとなり、中華系市民の間で不満が蓄積されていった。
1966年12月3日にはタイパ学校事件を引き金とする「一二·三事件」など、中国共産党のバックアップもあり、反ポルトガル運動が活発化してくる。
1986年より始まった中国・ポルトガル間での返還交渉の末、1999年12月20日に中国返還が成る。

マカオ マカオ

上の国境門跡は、現在のマカオと珠海洪北地区のイミグレ施設の前に残されているものである(写真内で隣接する大きな建物が現在のイミグレ)。最初の境界ゲートは1584年に明朝によって建設され、定期的なスケジュールで開閉が行われていたらしい。 1849年、ポルトガル・マカオ政庁により、市街地まで通じる馬車街道(馳道)の整備が完成する。現存する凱旋門型の境界ゲートは、1870年にポルトガル側により建設が始められ、翌年に完成する。そして、1874年、明代からの古いゲートはポルトガル政庁により破却される。

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