BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 牡丹江市 ~ 人口 285万人、 一人当たり GDP 51,000 元


 ➠➠➠ 牡丹江市内の 城跡リスト ➠➠➠  クリック

  寧古塔旧城(【初代】昂邦章京、寧古塔副都統、吉林将軍)
  寧古塔新城(【二代目】昂邦章京、寧古塔副都統、吉林将軍)
  上京龍泉府城(渤海国【二代目】王都)



【 牡丹江市の 歴史 】

中国東北部では、旧石器時代後期より古代人類の生息が確認されており、中原で王朝が変化する度に、その名称に変更が加えられてきた。
夏王朝、商王朝、周王朝の時代には、肅慎族、息慎族、稷慎族などと呼称され、前後漢~魏晋時代には、肅慎族は挹類族へ改称され、さらに南北朝時代には、勿吉族へ変更されていた。

そして隋代、唐代に至り、勿吉族は靺鞨族と通称されることとなる。下地図。
この時代、靺鞨族と呼ばれた原住民勢力は、七つの部落に分かれており、その内の「佛涅部」が現在の牡丹江市エリアに、さらに東端の牡丹江市綏芬河市域には「号室部」が割拠していた。下地図。

牡丹江市

698年、粟末靺鞨族(上地図)のリーダ- 大祚荣(?~719年)が、牡丹江上流の 敦化敖東城(今の 吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市新設村)を【初代】王都とする、震国(旧国)を建国する。その後も順調に勢力を拡張し、705年、大祚荣は唐王朝へ朝貢して、国号を渤海国へ変更する。以降、正式に唐朝下の地方自治政権としての立場を確立する。

755年、渤海国 3代目国王・大欽茂(大祚荣の孫。?~793年)が、王都を今の 牡丹江市寧安市渤海鎮へ移転させ、上京龍泉府【二代目王都】と命名する。下地図。
【初代王都】は、中京顕徳府へ改編される。

牡丹江市

この渤海国が絶頂期にあった時代、五京十五府六十二州が配置され、その版図は、今の吉林省、黒竜江省の大部分、遼寧省の一部、及び、ロシアの沿岸地区や北朝鮮の 咸鏡北道、両江道、慈江道、平安北道の一部分までを含む、東西五千里あまりにも及ぶ範囲で、十万余りの住民と、常備軍数万を擁する規模を誇ったという(上地図)。その強勢ぶりから、海東盛国とも号されていた。

しかし、10世紀初頭から、渤海国の衰退が始まると、925年末、西隣に建国されたばかりだった契丹国 初代国王・耶律阿保機(872~926年)が大軍を率いて、渤海国領へ侵攻してくる(下地図)。翌 926年春、【二代目王都】上京龍泉府も陥落し、渤海国 15代目国王・大諲撰は城外に出て投降する。こうして、229年の歴史を誇った渤海国は滅亡に追い込まれる。国王は契丹国の 王都・上京臨潢府(今の 内モンゴル自治区赤峰市)に連行され、一時幽閉された後、渤海国の旧王族や従者らと共に、遼南地方(山東半島)まで強制移住させられることとなる(928年)。その大移住の前、渤海人らにかつての栄光と故郷への未練を断ち切らせるべく、彼らの目の前で【二代目王都】上京龍泉府は放火され、悉く灰燼に帰したという。その後、渤海国の 旧臣(靺鞨族)らは 定安国、興遼国、大元国などの新政権を打ち立てては契丹国に反旗を翻すも、ことごとく鎮圧されていくのだった。

牡丹江市

中原では唐王朝が滅亡し、五代十国時代に突入する。この頃、中国東北部を平定した契丹国は、さらに内モンゴル地方へも勢力圏を拡張させていく(上地図)。

この強大化する 契丹国(後に遼王朝へ改称)の支配下にあって、靺鞨族は女真族へ改称され、現在の黒竜江省南部の山岳地帯に押し込められながら集住を強いられていくこととなる(特に「生女真族」と通称されていく)。

12世紀初頭、この生女真族(完顔部)のリーダーとして 完顔阿骨打(1068~1123年)が出現すると、周囲の女真族グループを糾合し、一大勢力を築き上げる。当時、「仆干水」(今の牡丹江市)を根城としていた、と史書に言及される。
完顔阿骨打に率いられた女真族は、そのまま黒竜江省の南半分を支配するまでに台頭し、 1114年、因縁の遼王朝と直接対決に臨むこととなる。翌 1115年には、王都を 上京・会寧府(現在の 黒竜江省ハルビン市 阿城区)に定め、金王朝を建国する。その後も、引き続き快進撃を続け、現在の 吉林省、 遼寧省を征服し、その弟の 完顔呉乞買(完青晟。1075~1135年)が皇位を継承した後、 1125年には遼王朝を、1127年には北宋朝をも滅亡に追い込み、破竹の勢いで華北地方まで勢力を拡張するのだった。

この金王朝の治世時代、今日の牡丹江市エリアは、胡里改路に統括されていた。下地図。

牡丹江市

その金王朝も、1234年、モンゴル帝国と南宋王朝との挟撃を受け、滅亡に追い込まれると、以降、中国東北部は元王朝の支配下に併合される。

100年後、元王朝をモンゴル高原へ追い払い、中原で明王朝が建国されると(1368年)、建州女真族の一団が、現在の黒竜江省南部一帯に集住し続けることとなる(下地図)。

牡丹江市

明代の 1410年、建州女真族の主派「斡朵里部」の族長であった 愛新覚羅·孟特穆(後金朝の建国者ヌルハチの六世代祖先)が、部落民を伴って牡丹江西岸から南下し、寧古塔(今の 牡丹江市海林市旧街郷)に至る。
10年ほど定住した後、さらに東へ移住し、今のロシア連邦ウスリースクの対岸に建造された クラスノヤルスク要塞(カラウルナヤの丘上にあった、古くからの先住民らの聖地)を新たな定住地に定める。さらに、その後も度重なる移住を繰り返し、最終的に定住地としたのは、新賓の ヘトゥアラ(赫図阿拉。現在の 遼寧省撫順市 新賓満族自治県 西部の永陵鎮老城村)あった。ここで、後に後金王朝を創始する ヌルハチ(1559~1626年)が誕生するわけである。1636年、2代目皇帝ホンタイジ(ヌルハチの八男)により、このヌルハチ生誕の地は「興京」へ改称されることとなる(下地図)。

明代後期、この ヘトゥアラ(赫図阿拉)を根城に、建州女真族は日増しに勢力を増し、そのリーダーとしてヌルハチが台頭すると、1608年には武力で寧古塔旧城を攻め落とし、ここを拠点に定めて、今日の 興凱湖、三岔口、烏蘇里斯克、穆棱、寧安、密山、琿春辺りに広がっていた女真族の部落地を、次々と糾合していく。最終的に、建州諸部と海西女真族四部をも統一し、女真族連合軍=後金王朝が結成されるわけである。下地図。

牡丹江市

1626年、後金朝 2代目皇帝として ホンタイジ(1592~1643年)が即位すると、10年後の 1636年、女真族は 満洲族(満族)へ改称され、国号も清王朝へ変更される。

清王朝の中原進出後、長期間にわたって東北地方では封禁政策が採用され、基本的に漢民族の流入が禁止されることとなった。しかし、南明政権を滅ぼし、中国統一を進める過程で(1640年代~1720年代)、清朝廷は戦功のあった八旗官兵やその家族らに、順次、現在の黒竜江省南部の土地を分与していくこととなる。この過程で、漢民族系の土地も着実に増加していったという。

なお、この清代初期の 時代(1636~1666年)、当エリアの中心地は、昂邦章京と寧古塔副都統の行政庁が入居していた 寧古塔旧城(今の 牡丹江市海林市長汀鎮)であったが、1666年に、寧古塔副都統を務めていた巴海が、自身の出身部族集団を集めて、 新たに 寧古塔新城(今の 牡丹江市寧安市寧安鎮。下地図)を築城すると、同年 12月、この完成した新城へ両行政庁も移転される(以降、この寧古塔旧城は「旧城」や「旧街」と通称されていく)。
なお、この寧古塔一帯は清朝により流刑地に定められたことから、朝廷を罷免、追放された官吏らが次々と「謫戍」や「遺戍」として、この地に配流させられてくることとなった。彼ら知識人の流入は、同時に中原文化の伝播も意味し、満州民族との民族融合と文化革新を加速させる効果をもたらせたという。

牡丹江市

牡丹江市

ロシア帝国の南下が激化する中、1860年、清朝廷は順次、満州地方の封禁政策を撤廃し、漢民族らの新移民流入と土地開墾を奨励することとなる。この一環で、翌 1881年、寧古塔副都統の管轄下の鉄嶺河流域も開放される。 1904年には、現在の牡丹江市エリア全域が開放され、漢民族らが続々と流入するも、まだまだ人影は少なく、ほとんどが原野のまま残されていた。当時の地図には、「黄花甸子」という地名が記載されるだけの土地で、すなわち、大きな黄花が延々と連なる地形であったことの証左となっている。こうした大自然の中に、わずか四、五軒の民家が点在する程度だったという。

ロシア帝国が中東鉄道の建設を進める中、1903年、牡丹江の北岸に「牡丹江車駅」が開設される(下地図)。こうして、現在の牡丹江市中心部の発展の基礎が形成されると、以降、人口は増加の一途をたどり、都市開発が急速に進展する。
1907年、清朝廷により東三省将軍制から行省制へ改編されると、今の牡丹江市エリアは吉林省寧安府に統括された。
牡丹江市

中華民国時代、吉林省に帰属する。1931年、満州事変(九一八事変)が勃発すると、翌 1932年5月、日本軍により牡丹江駅周辺も占領される。
日本統治下の 1937年1月、牡丹江省が新設され、寧安県、穆棱県、東寧県、密山県、虎林県の 5県を統括する。同年 12月1日、正式に牡丹江市が新設されると、牡丹江省は上記の 5県とこの牡丹江市 1市を監督した(省都は、牡丹江市が兼務)。しかし、1945年、日本軍が敗戦を迎えると、ソ連軍が進駐し、東満省と牧丹江市が解体されることとなった。


お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us