BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 南京市 ~ 人口 830万人、 一人当たり GDP 140,000 元


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  応天府城(明朝の王都、清代:江寧府城&江南省城、太平天国 王都・天京城)
  南唐朝の王都・金陵府城(北宋代・江寧府城、南宋代・建康府城、元代・集慶路城)
  三国時代、孫呉の 王都・建業城(西晋時代・建鄴城、東晋時代~建康城)= 六朝古都
  石頭城(金陵邑城、建業県城、秣陵県城、蒋州城、江寧県城、揚州府城)
  越城(范蠡城)
  東府城(孫権により王城の東面の防衛城塞として 築城されていた)
  丹陽郡城
  秣陵県城(秣陵関)
  江寧県城(臨江県城、帰化県城、金陵県城、白下県城、上元県城、升州府城)
  胡孰県城(胡孰国王都、湖熟県城、胡熟県城)
  江乗県城
  六合県城(堂邑城、堂邑県城、堂邑侯国・王都、尉氏県城)
  同夏県城
  溧水県城(溧水州城)
  高淳県城(高淳鎮城)



【 南京市の 歴史 】

殷(商)王朝時代までは、今の南京市一帯は荊蛮の地に分類されて、中原朝廷の支配外にあった。
殷朝末期に西涼(今の 甘粛省 あたり)の軍閥を束ねて周が台頭すると、殷朝から西伯侯に封じられる。あわせて、長江下流域の江東の地にも封地が与えられることとなった(分家・周呉氏の誕生)。高い軍事力を誇った周家に蛮族らの統治を委ねたのだった。
最終的に、その周が殷朝を打倒し、中原に周王朝を建国すると、以後、春秋時代を通じて、そのまま分家の周呉氏が今の南京市一帯を領した(呉国、句呉国)。

戦国時代初期の紀元前 473年、南部に勢力を伸長させてきた越国により呉国が滅ぼされると、その旧領はそのまま越国に併合された。
紀元前 334年にその越国も楚国に滅ぼされると、翌紀元前 333年、楚により秦淮河の北岸の岩山上に 城塞(石頭城の前身)が築城され、ここに金陵邑が開設される。以後、現在の南京市域は金陵邑の管轄区とされる。
紀元前 223年に楚国も秦に滅ぼされる。秦はそのまま紀元前 221年に斉国をも滅ぼし、中原統一に成功する。
南京市

秦の始皇帝は 49歳の最晩年であった紀元前 210年、5回目の全国巡遊に出立する。このときは、王都から南東の方角にあった江東エリアへの訪問となった。その道中で、金陵邑城(今の南京市)の付近を通過する。
この時、方士の占いで「500年後に天子降臨を生じさせる地」、という予言が下されたため、これに激怒した始皇帝は、この運気の流れを断ち切るべく、一帯の丘陵地帯の山肌を切り崩し、地形を大いに変形させたといわれる。
そして、直後に岩山上の 金陵邑(始皇帝はこの名称も嫌悪したため)を廃止させ、秣陵県(「秣」は、家畜の飼料である「まぐさ」のことで、侮蔑の意味を込めさせた)を新設する(会稽郡に帰属)。その県役所は、岩山下の平野部の 秣陵関(今の 南京市江寧区秣陵街道)に築城され、以後、秦代、漢代を通じ南京市域一帯の行政都市として機能することとなる。
このとき同時に、丹陽県(今の安徽省 馬鞍山市 当涂県)と 江乗県(今の 南京市栖霞区にある仙林大学城の一帯)も新設され、共に会稽郡に帰属された。

そして始皇帝の一向は、江東地方を周遊後、新設の秣陵県城の南西部に位置した丹陽県城を経由し、江乗県城下から船に乗って長江を渡り、華北への帰路につく。
始皇帝はこの 王都・咸陽 へ戻る途中、平原津(今の 山東省徳州市平原県の南)で病気にかかり、 かつて殷王朝や越国が離宮として使用した 沙丘宮殿(現在の河北省 邢台市 広宗県大平台村の南)へ移送され、そのまま邸宅内で崩御してしまうのだった(沙丘宮平台遺跡)。

南京市

この秦朝が設置した 秣陵県、江乗県、丹楊県の 3県役所はともに今の南京市区内に立地しており、その管轄範囲は寧鎮山脈の以南で、横山より北側、茅山より西部の広大な領域に及んでいた。上地図。

前漢朝の 7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 128年、今の南京市一帯に江都国が建国されると、易王・劉非(紀元前 169~前 127年。2代目皇帝・景帝の子で、武帝とは異母兄弟)が江都候に封じられる。
彼は、自身の皇子らをさらに領下の諸侯に封じ、それぞれ独立国家を建国させる(秣陵国、胡孰国、丹陽国の三侯国)。このとき、秣陵侯に報じられたのが、劉纏だった。

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紀元前 121年、江都国が廃止されると、 管轄下の 秣陵侯国(今の 南京市江寧区秣陵街道)、江乗県(今の 南京市栖霞区にある仙林大学城の一帯)、胡孰県(今の 南京市江寧区湖熟街道の梁台、城崗頭一帯)、丹陽県(今の 安徽省 馬鞍山市 当涂県)などはすべて鄣郡に編入された。
紀元前 114年、秣陵侯の劉纏も死去すると、後継ぎがいなかったため、そのまま秣陵侯国も廃止される。秣陵侯国の存在はわずかに 15年だけで、その後、再び、秣陵県へ戻され、鄣郡(紀元前 109年、丹陽郡へ改称。郡都は宛陵県城 = 今の安徽省 宣城市 宣州区)に属した。上地図。

前漢朝の権力を簒奪し、新王朝を建国した王莽は 14年、秣陵県を宣亭県へ、江乗県を相武県へ改称する(丹陽郡は廃止)。
しかし、赤眉の乱などで中原は大混乱となり、23年に新朝があっけなく滅亡すると、各地の名称はすべて前漢時代のものへ戻されることとなる。このとき、宣亭県は秣陵県へ戻され、引き続き、丹陽郡に属することとされた。

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時は下って、後漢末の 212年、楚国が築城した岩山上の 城塞「金陵邑城跡」地を孫権が大規模改修して、石頭城(今の 南京市内にある清凉山上の石頭城遺跡)を建造する。
同時に、秣陵県は建業県へ改称され、県役所が 秣陵古城(秣陵関)から、新築の石頭城内へ移転される。
また、湖熟県(後漢初期に胡孰県から改称。今の 南京市江寧区湖熟街道にある梁台、城崗頭一帯。別名:胡熟県)と 江乗県(今の 南京市栖霞区にある仙林大学城の一帯)の 2県が廃止され、典農都尉(県長官に相当)が一帯を統括することとされた。

222年、孫権が王都を京口からこの 秣陵関(旧秣陵県城跡)の地へ移転させると、ここに巨大王都の建設を開始する。

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280年、西晋朝が孫呉を滅ぼし三国を統一すると、建業県は秣陵県へ戻され、また、胡孰県と江乗県の 2県も復活設置される。同時に、秣陵県の南西部が分離され、臨江県が新設される。

翌 281年、臨江県が江寧県へ改称され、歴史上初めて江寧県の地名が登場することとなった。県役所は今の南京市江寧区江寧街道に開設された。

さらに翌 282年、建鄴県が新設されると、秦淮河の北岸が管轄区とされる。南岸はそのまま秣陵県の統括区とされた。
両県役所はそのまま石頭城内に同居されたが、70年後、秣陵県役所が再び、旧県城跡地の 秣陵関(今の 南京市江寧区秣陵街道)へ戻されることとなる。
西晋朝末期の 313年、建鄴県が建康県へ改称される。西晋朝最後の皇帝である 司馬鄴(愍帝)の名前と漢字がダブったための変更であった。下地図。

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東晋朝が建国された直後の 317年、元帝が建康県城に王都を定めると、周囲にあった 江寧県、秣陵県、丹陽県、湖熟県などの諸県もそのまま存続される(引き続き、丹陽郡に帰属)。
同時に、華北で五胡十六国の戦乱が巻き起こる中、大量の流民が江南地方へと移住し、各地の人口を急増させたため、臨沂県、陽都県、懐徳県、肥郷県、博陸県、堂邑県など、南京市の周囲だけでも、新しい県城が次々と新設されていった。
413年、秣陵県の県役所が建康城の南東部にあった 柏社区(今の 南京市高淳区古柏鎮)へ移転される。下地図。

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こうして南北朝時代がスタートすると、東晋朝に続いた 劉宋朝、斉朝、梁朝、陳朝はいずれも建康城を王都と定めた。
基本的に、江寧県、秣陵県、建康県、丹陽県、湖熟県(今の 南京市江寧区湖熟街道の梁台、城崗頭一帯)などの諸県はそのまま丹陽郡に属した。梁朝時代の 502年、秣陵県下の同夏里が分離され、同夏県(今の 南京市江寧区上坊社区)が新設される。
陳朝時代の 578年、配下の県城が増えすぎた丹陽郡が分離され、建興郡が新設される。江寧県、秣陵県、建康県は丹陽郡に残され、湖熟県、江乗県、同夏県などの諸県が建興郡へ移籍された。

北朝の隋が 589年、王都・建康城に攻め込み、陳朝を滅ぼして南北朝の統一に成功する。
直後に隋朝が建国されると、300年近くも南朝の王都として君臨した建康城時代の記憶を江南の人々の記憶から抹消すべく、栄華を極めた宮殿や王宮、楼閣などは徹底的に破壊され、すべて更地化されて、農地へ再開墾されてしまったという。
隋の文帝は再び、南朝の王を名乗る勢力がこの地に王都を構えて、江南地方の人々のかつての記憶をくすぶるリスクを一切、排除しようとしたのだった。 ただし、長江流域に位置したこの町は引き続き、中国江南エリアでも重要都市の一角であり続けた。

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秦淮河の北岸の石頭城を再整備して軍事拠点化し、この城内に蒋州の州役所を開設する。 江寧県、溧水県(今の 南京市溧水区永陽街道)と 当涂県(今の 安徽省 馬鞍山市 当涂県)の三県を直轄した。
なお、蒋州の名称は、付近の蒋山にちなんだものという。もともとは鐘山と通称されていたが、後漢末に孫権がその祖父・孫鐘の諱号とのダブリを避けるべく、部下で戦死した 秣陵県尉(秣陵県役所の公安部トップ)・蒋子文の姓から取って、蒋山と改称したものだった。

隋朝 2代目皇帝・煬帝の 治世時代(605年)、建康県、秣陵県、同夏県が廃止され、江寧県に吸収合併される。
翌 606年には 臨沂県、丹陽県、湖熟県(今の 南京市江寧区湖熟街道の梁台、城崗頭一帯)の 3県も廃止され、江寧県へ吸収合併される。
翌 607年、蒋州が丹陽郡へ改編され、江寧県と溧水県はそのまま丹陽郡に属した。

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隋末(618年滅亡)、天下は大いに乱れ、各地に群雄が割拠した。特に豊かだった江東エリアは、沈法興(毗陵城)、李子通(海陵城)、杜伏威(歴陽城)、輔公祏(丹陽郡城)など群雄の数も抜きんでていた。上地図。
620年、最終的に唐朝の李淵が 輔公祏(宋政権を建国していた)を滅ぼし江東地方を平定すると、直後に、江寧県と 溧水県(今の 南京市溧水区永陽街道)、安業県などを統括する揚州府(江寧県城内に併設)が新設される。すぐ後に江寧県が帰化県へ変更される。

以後、唐代を通じて、南京市の名称は頻繁に変更されることとなった。
625年、安業県が廃止され帰化県へ併合されると、帰化県は金陵県へ改称される。

翌 626年、金陵県はさらに白下県へ改名され、潤州(州都は延陵県城。後に丹徒県城へ移転。今の江蘇省 鎮江市)に帰属する。また一方、丹陽県は 宣州(今の安徽省 宣城市)に属した。
なお、同時に石頭城内の揚州の州役所と揚州大都督府が、江都郡城(今の江蘇省 揚州市 江都区)へ転出される。下地図。

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635年、白下県は再び、江寧県へ改称される。
742年、江寧県が丹陽郡に帰属する。
757年、江寧県城内に江寧郡の郡役所が新設されると、江寧県の県役所が廃止される。
翌 758年、江寧郡が升州へ改編されると、江寧県が復活設置され、升州に属した。
761年、江寧県が上元県へ改名される。唐朝の粛宗の治世時代の「上元」という元号がそのまま県名に採用されたのだった。翌 762年、升州が廃止されると、潤州(州都は丹徒県城。今の江蘇省 鎮江市)に属した。
唐末の887年、升州が復活設置されると、上元県はここに再移籍される。

唐末に全国が群雄が割拠し、唐朝より 902年に呉王に封じられた楊行密は、本拠地を上元県城に定め、楊呉政権を樹立する。しかし、905年に楊行密が死去すると、その部下が政権権力を握り、以後、軍政が敷かれる。この傀儡政権時代にあった 915年、上元県城内に升州大都督府の府役所が新設される。

917年、上元県の南部の十九郷と、当涂県の北部の 2郷が分離され、江寧県が復活設置される。これ以後、江寧県と上元県の県役所が同じ県城内に併設される状態がスタートする。
920年、升州大都督府が金陵府へ昇格されると、そのまま江寧県と上元県の 2県を統括した(下地図)。
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937年に楊呉政権から権力簒奪して南唐朝が建国された 937年、王都は同じく金陵府城内に開設される。同時に、金陵府は江寧府へ改称され、配下の江寧県と上元県はそのままとされた。

北宋時代の 975年、江寧府が升州府へ改名され(1018年に江寧府へ戻される)、そのまま江寧県と上元県の 2県を統括した(下地図)。
北宋末期の 1129年、江寧府が建康府へ改称される。

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元代の 1277年、建康府が 建康路(1329年、建康路が集慶路へ改称)へ昇格すると、引き続き、江寧県、上元県などを統括した。

元末の混乱期の 1356年、朱元璋が集慶路を応天府へ改編する。引き続き、江寧県、上元県などを統括した。
1368年に明王朝が建国されると、応天府城が王都と定められ、南京と通称されるようになる(1378年、京師と呼称されだす)。江寧県、上元県はそのまま応天府の直轄となる(下地図)。

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清代初期の 1645年、南京が江南省へ、 応天府が江寧府へ改称される。そのまま 江寧県、上元県などを直轄した。
1853年、太平天国軍が江寧府城を占領すると、ここを王都と定め、天京城へ改名される。最終的に 11年後の 1864年に清軍により平定されると、江寧府へ戻される。

中華民国の建国が宣言された 1912年1月1日、中華民国臨時政府は江寧府城を首都に定め、江寧府は南京府と改称される。それまで直轄してきた江寧県と上元県の 2県が廃止される。
翌 1913年、南京府が廃止されると、江寧県が復活設置される。
1933年2月10日に江寧自治実験県が成立し、江蘇省政府の直轄都市とされた。


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