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河南省南陽市 ~ 人口 1,100万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  宛県城(南陽郡城、唐州城)
  新野県城
  穣県城(穰邑城、鄧州城)
  山都県城



【 南陽市の歴史 】

南陽市はかつて宛と呼称されており、豫州、鄂州、陕州の3州が交わる要衝で、 3方面を山に囲まれた盆地状の地形になっている。伏牛山の南に位置し、漢水の北側にある盆地ということで、南陽と命名されたという。

南陽市一帯の歴史は古く、40~50万年前には南召猿人と呼ばれる古代原人が白河の流域に生息していたことが分かっている。また、すでに5000~6000年前の新石器時代期には、農業、牧畜、土器製造などの文明的営みを有する集落地が複数、形成されていたようである。

南陽市

西周朝の時代、南陽市エリアは荊州に区分けされた。
戦国時代には楚の領土下に置かれたが(上地図)、丹陽・藍田の戦いで秦に大敗を喫した楚は、国力を大幅に減じ、これを機に紀元前312年、秦、魏、韓らによる同時侵攻を許すこととなった。韓は楚を撃破し、この地域一帯の占領に成功する。
しかし、紀元前296~272年にかけて、秦の昭王が韓の領土への侵攻を進め、一帯の城邑を占領していく。こうして最終的に、秦の領土下に組み込まれ、紀元前272年、秦により宛城を郡都とする南陽郡が新設されるに至る。下地図。

当時から、すでに宛城(今の南陽市中心部)は中国全土の8大都市の1つに数えられるまでに豊かな都市に成長しており、鉄器の鋳造や蚕飼育による織物産業、その他の各種商工業が大いに発達していたという。さらに、当地の精銅技術の水準は中国全土でもトップレベルを誇っていたとされる。

南陽市

秦の始皇帝が中原を統一すると、富裕な商人や事業主、手工業者らが南陽の地に集められ、秦帝国内の鉄の精製拠点として全国にその名を轟かせることとなる。

前後漢時代を通じ、引き続き、南陽郡が継承され(郡役所はそのまま宛城に開設)、その行政区は今の河南省の熊耳山より南、そして湖北省の大湖山より北側の一帯に及んでいた。宛城を中心とする現在の南陽市エリアの経済的繁栄はますます強勢となり、その栄華は当時の中国でも、比類ないレベルに達していたという。

前漢朝の時代、南陽郡一帯では積極的に運河開発が進められ、関中の鄭国渠と成都の都江堰に並び、全国の3大灌漑事業と称された。この時代、南陽市は全国の5大都市(南陽、洛陽、臨淄、邯郸、成都)の一つに数えられ、屈指の商工業都市であり、また製鉄産業の一大拠点として、全国トップレベルに君臨した。特に、その鉄の精錬技術は欧州の1000年先を行く先進性を有していたとされる。

南陽市

後漢初期、後に初代皇帝となる劉秀はこの南陽の地で挙兵し、全国を再統一したので、後漢時代を通じ、南陽郡城(宛県城)は「帝郷」と別称されることとなる。この後漢時代に城壁の大改修工事が進められ、その総延長は周囲18kmにも及んだという。これは、1990年当時の南陽市街区よりも広大な城域を意味した。当時すでに人口は240万人を数え、中国最大の人口都市でもあった。

こうした背景から、前後漢時代を通じ、南陽郡からは多くの逸材が輩出されている。その中には張衡、張仲景などの世界的な科学者や医学者も名を連ねた。

南陽市

後漢末期、南陽郡都の宛城には袁術が本拠地を置いていた。その豊かなエリアから上がる潤沢な租税で私腹に肥やし、華奢な生活を謳歌した様を世間から冷やかに見られた逸話は有名である。

196年に張繍により南陽郡が占領され、以後、張繍の領土となる(上地図)。早くも翌年以降、穰城や宛城を中心に曹操軍と激突し、その度に同盟者であった荊州の劉表から支援を受け、曹操軍の撃退に成功している。最終的に張繍は199年に曹操に帰順し、207年に死去する。その後、宛城を中心とする南陽郡は、曹操の最南端の拠点として機能することとなる。

南陽市

赤壁の戦い(208年)前には、曹操は穰城の南側に軍馬輸送用の大運河(今に残る小漕河)を掘削させる。こうして南陽郡下の穰城一帯を兵糧、兵馬の貯蔵基地として、南進体制を整えたのであった。

結局、曹操は赤壁で孫権・劉備の連合軍に敗れたことで、荊州の領有ラインが確定してしまう。以後、南陽郡は対蜀、対呉の最前線地帯として、常時、重い軍役を課されることとなる。
これがもとで218年末、関羽と内通した魏将の侯音が庶民らと共に宛城内で挙兵するも、南陽郡太守の東里袞と樊城を守備する曹仁により翌年早々に鎮圧されることとなった。


南陽市

時は下って、唐代には南陽郡城(宛城)内に鄧州と唐州の2州の州役所が同時併設された。唐代を通じても、宛県城を中心に農業、商業、鉱工業は発展を続け、中国全土から多くの富が集まったという。

さらに、明代初年に、南陽には初代皇帝の朱元璋の23番目の子(朱柽)が唐王として封じられる。
第3代皇帝の永楽帝(朱棣)の治世下(1403~1424年)、南陽城内には巨大な唐王府が建設される。
第9代皇帝の憲宗の治世下(1465~1487年)、さらに唐王府に関連する館が9箇所も増設された。
明代を通じても、南陽地区一帯は活況を極め、経済から文化まで幅広い分野で中国をリードする都市であり続けた。下絵図。

南陽市

清代を通じ、引き続き、その経済力と文化発信力は絶大で、王都の北京から、湖北・湖南・広東・広西・貴州・四川・雲南省方面へとつながる水陸にわたる交通の要衝に位置したことから、大陸間のほぼ全交易に絡むこととなる。
清末期には、絹織物の生産も盛んとなり、その多くが欧州や東南アジア方面へ輸出されていった。


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