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四川省内江市 ~ 人口 505万人、 一人当たり GDP 31,000 元


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  内江県城(漢安県城、中江県城、資州城)



【 内江市の歴史 】

「内江」の地名であるが、元々は「中江」と呼ばれていた。傍らを蛇行して流れる沱江の北側を「牛鞞水」、もしくは「北江」と呼び、また南側を「枝江」もしくは「南江」と呼んだため、この中間点にある同地が「中江」と呼ばれていたそうである。隋の文帝の時代に、内江へと改名されている。すなわち、沱江の別名である「内水」から取った名前という。ちょうど河が蛇行する内側の岸に位置しており、「内江」という名で呼称されることになった、ようである。

この地には、35000年~40000前の資陽人による四川系古代文明の集落跡が確認されている。1951年の架橋工事の際、旧石器時代後期の人骨化石、石器類、陶器類が発見されている、という。
周王朝の時代には、蜀国と巴国に分断されて服属していたが、秦の昭襄王の治世下の紀元前301年、将軍「張儀」が派遣され、蜀国、巴国は平定され、秦により蜀郡と巴郡が新設される。当時の内江市一帯は、この両郡に分断されて、それぞれの統治下に入ることになった。ちょうど両地区の接続点としての一帯を占めたことになる。
そして、前漢時代の紀元前135年には、資中県が設置される。
また、後漢第8代皇帝の順帝(在位:125~144年)の治世下、資中県から分離する形で、漢安県が新設される。これは、漢王朝の治世が永遠に続くことを願掛けして命名されている。ここに現在の内江市街地が含まれることになった。
三国時代もこのままの地名と統治形態が継承され、この地は漢安県の管轄下に置かれた。

その後、南北朝時代、五胡六国時代と支配王朝が変わる度に、幾度も地名や所属区域が変更され、ついに、北周時代の567年、漢安県を改名して中江県とする。隋の時代 581年に、前述の通り、「内江」へと最終的に変更されている。
しかし、南宋時代後半の30年間、四川省内はモンゴル軍の蹂躙を受け、人口が激減する。1279年にモンゴルの元帝国が中国全土を占領するも、この地の人口は少ないままとなり、簡州が新設されるも、居住人口不足で内江県は廃止される。同時に、資州、普州が設置されるも、同じくかつての穀倉地帯の栄華を取り戻すことができないままでいた。

元末の1351年より、紅巾の乱(白蓮教の反乱)が起こって徐寿輝が武装蜂起すると、その部下の明玉珍を蜀へ派遣する。明玉珍の遠征軍は、モンゴル残留兵のこもる重慶を占領し、さらに四川省各地を転戦して、その大部分の平定に成功する。そして、1363年春、明玉珍は重慶の地にて皇帝に即位し、大夏を建国する。このころから、湖南省、湖北省、広東省一帯の住民を大規模に移民させ、四川省復興に注力する。そして、資州、この下の内江県や安岳県がそれぞれ復活され再生するに至った。
明の朱元璋は、1371年、制蜀軍を発し、夏の四川省へ侵攻する。初戦の敗戦をもって、夏は降伏。こうして明王朝の支配が四川省全域にまで行き渡ることになった。このとき、資州は資県へと格下げされている。
そして、清代の 1727年、再度、資県が資州へと格上げされ、資陽、内江、仁寿、井研の四県を管轄することになる。そして清末を迎えることになった。

内江市

この地も、現在はかつての漢安県時代から続く古城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。北街、上南街、卵市巷、小東街、牌楼街、大西街、壕子口路(城外から堀川まで行きつく路地の名残)。

四川省の穀倉地帯に位置付けられており、古くからサトウキビ栽培や製糖業が盛んだったことから「甜城」の別名を持つ。

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