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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省寧徳市 ~ 人口 340万人、 一人当たり GDP 41,000 元


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  寧徳県城(感徳場)
  福安県城
  霞浦県城
  寿寧県城



【 寧徳市の歴史 】

秦の始皇帝による中国統一までは、閩越族らが割拠する地域(七閩の地)であったという。

280年、西晋の司馬炎により呉も併合され、三国統一が成る。その後、旧呉領内の行政区再編が進められ、この一環により282年、温麻県が新設される(最初は晋安郡に、後に豊州に帰属)。これが寧徳市一帯での最初の県城となる。なお、温麻県役所は今の霞浦県の洪山の麓に設置された。その行政区域は今の寧徳地区の大部分と政和県、連江県、羅源県なども含む広大なものであったという。

時は下って、隋代の589年、温麻県が廃止され、泉州下の原豊県に吸収合併される。さらに二代目皇帝の煬帝の治世下の607年、原豊県は閩県へと改称され、引き続き建安郡(晋安郡より改称。唐代には建州へ変更される)の下に置かれた。 623年には、閩県が分割され、もともとの温麻県の地に長溪県(県役所は今の霞浦県に開設)と連江県が新設される。いずれも泉州に帰属された。しかし、同年中に長溪県は連江県に吸収合併され、閩州(今の福州市)の管轄下に編入される。
唐代の702年、連江県が再び分割され、もともとの長溪県が復活される。その県役所は以前と同様、今の霞浦県に開設される(閩州【後に福州へ改称】に属する)。
なお、このころまで寧徳市中心部の蕉城区一帯はまだまだ未開の漁村地域に過ぎなかったが、 840年に長溪県寧川と古田県の東北部分が分離されて、感徳場という地方役所が設置されるに至る。

五代十国時代の後唐朝の治世下の933年、感徳場が寧徳県へと昇格され(寧川の”寧”と、感徳の”徳”から命名)、長楽府の管轄下に配される。

寧徳市

時は下って、元代の1286年、長溪県は福寧州へと昇格され、福建行中書省福州路に属された。福寧州の管轄下には福安県と寧徳県の2県が配された。

明代初期の1369年、福寧州が福寧県へと降格され、引き続き、福建行中書省福州路の下に置かれる(寧徳県もここに帰属)。しかし、1473年、再び福寧県が福寧州へと昇格され、福建承宣布政使司の管轄下に置かれる。降格前と同様に、福安県と寧徳県の2県を統括することとされた。明朝後期となると、倭寇らが海岸地域を荒らし回ることとなり、寧徳県城も廃墟と化したという。これを受け、1561年に県長官であった林時芳が 2年の歳月をかけて、土塁から煉瓦積みの城壁へ大改修工事を進める。この修繕後の石積みとなった寧徳城がバナナの形状に見えたことから、蕉城とも別称されるようになり、今日も中心部が蕉城区と呼ばれる所以となっている。

清代も明代の行政区をそのまま踏襲する。清朝も中盤に差し掛かった1734年、福建閩浙総督府の下、福寧州が福寧府へと昇格され、福安県、寧徳県、霞浦県、寿寧県の4県の管轄を司ることとされる。

中華民国の建国により、1912年、府制と州制が廃止され、福寧府が福寧県へと降格される。福建省下ですべての県が直轄同列となる。2000年より現在の寧徳市制がスタートし、今日に至る。

寧徳市

なお、かつて寧徳市中心部にあった寧徳県城跡であるが、今日では城門、城壁ともに完全に撤去されてしまっており、かつての名残は全く残されていない。しかし、旧城壁都市時代を反映した路地名や多くの祠廟などが残されており、古に思いを馳せることも可能だ。北門旅館、環城路、東門商城、署前路、三官廟、関帝廟、南環路など。


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