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甘粛省平涼市 ~ 人口 207万人、 一人当たり GDP 12,000 元


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  平涼府城



【 平涼市の歴史 】

北周王朝の572年、原州長城郡の下、平涼県が設置された。
唐王朝の742年、全国的な統治制度の変更により、原州は平涼郡へと改名される(788年、再度、平涼県へ戻される)。しかし、755年より始まった安史の乱により、唐の国力は疲弊し、特に西域への影響力が著しく低下する。中央アジア、シルクロード上での覇権は完全に消滅し、さらに 763年10月には、西から侵入した吐蕃王国(チベット族)により、唐王朝は都の長安をも占領されてしまう。半月ほどの占領後、疫病の蔓延により、吐蕃軍は長安を放棄し、西域へと軍を戻す。しかし、その後も、唐軍と吐蕃軍は西域、四川省一帯で度々、軍事的衝突を繰り返した。唐は西側防衛の最前線として、平涼郡を位置づけ、行原州、続いて行渭州の郡役所をこの地に設置した。しかし、877年に滅亡した吐蕃国の支配下にあった少数民族らにより、880年、平涼城も攻略されてしまう。その後、平涼城を再奪取した唐により、935年、平涼県が再び設置され、涇州(後に渭州へ改名)に帰属されることになった。

平涼市

五代十国時代の戦乱を平定し、 再び中国を統一した北宋王朝は、西域民族の勢力を排除し、1117年、渭州に平凉軍節度を設置する。さらに、1131年には渭州は平涼府へと変更される。北宋王朝では西域民族や北方民族への低姿勢外交が展開されており、専守防衛の体制が取られていた。1139年には再び、渭州へと改名されている。1187年、再度、渭州から平涼府へ改名。1219年には、隴西西路行省がこの地に設置された。

そして、明代の1376年、平凉府は陝西布政使司の直属下に置かれ、また、清代の1669年には、平凉は甘粛省平慶道へと改名され、さらに清末の1859年、分巡平慶涇固道へと変更されている。この後も、1869年には平慶涇固化塩法兵備道、1907年には分巡平慶涇固化道へと改名されている。
清滅亡後の中華民国時代の1913年、分巡平慶涇固化道は隴東道へ、翌年には涇原道へ、ようやく中華人民共和国の1949年8月、平涼県へと地名が戻された。

平涼市

なお、この西域民族との最前線軍事拠点であった平涼古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。和陽門(東門)ホテル、城南路、南環路、南門巷、西城路、西門波、西大街、東大街、柳樹街、西寺街、北后街、九天廟巷。


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