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雲南省普洱市 ~ 人口 259万人、 一人当たり GDP 10,000 元


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  寧洱県城(寧洱府城)
  思茅県城
  他郎城
  威運城



【 普洱市の歴史 】

孟連岩穴遺跡など、新石器時代の移籍も出土している。 瀾滄江流域およびその周辺には濮族、越族、氐羌族などの先住民族らが生活しており、 普洱市域においては、現在の普思周辺に多くの先住民らが生息していたとされる。 この流れから、普思周辺が長らく普洱市域の中心地帯であり続けた。
春秋戦国時代から秦朝による中原の統一の時代、雲南地域は河川も多く、急峻な地形と密林地帯が続く僻地であったため、 未だに中華文明に接することなく自生する文化圏や部族らが多数あったとされる。
普洱市

前漢時代の紀元前111年、武帝による「西南夷(西南地域の野蛮民族)」掃討遠征が 決行され、古滇国などが滅亡し、新たに鍵為、牂牁、越嶲、益州の4郡がこのとき新設される。 現在の普思地域は、益州郡西部にあった哀牢国の領土下に帰属された。地形的に未だ 奥地に位置し、前漢王朝の支配下として、その郡県制度に組されていなかったようである。
後漢時代の69年、哀牢王国が後漢王朝に服属し、新たに哀牢と博南の2県は新設される。 さらに、益州西部都慰の6県も分割し、これらを合わせて永昌郡が開設された。益州郡から 離脱して、新しい行政区分が誕生したことになる。 現在の普思地区一帯は永昌郡哀牢の地であり、瀾滄江流域の東岸は濮子部族、 西域には望部族と茫部族(茫天連)らが引き続き、独立勢力として存続し続けたという。

普洱市

時は三国時代、225年に諸葛孔明が南蛮遠征を決行する。益州中部、南部と、牂牁、越嶲、永昌郡の4郡を平定後、 孔明は国内体制を強固にすべく、郡・県制度の復活作業に取り掛かる。平定した5郡を鍵寧、朱提、雲南、永昌、興古、越嶲、牂牁の7郡へと 改編している。普思の一帯(現在の普洱市地区)は永昌郡の最南地域を形成しており、新たに県や郡制度の導入を図るも、 直接的な蜀政権の支配力がまだ及びきれていなかったようである。しかし、普洱市域内には洗馬河や孔明山という 地名が残っており、蜀軍の威光が届いていた証左とする意見もあるらしい。

794年、唐王朝と同盟を結んた南詔国は「六詔合一」を成し遂げ、大理洱海地域一帯を統一し、 これらの地域開発が急速に進むことになる。 南詔国は六賧八節度によって国内統治を図る。普洱地区には奉逸城が設置される。 南詔国の滅亡後、その統治範囲を引き継いだ大理国の時代にも、ますます 文化統合が進むことになる。

普洱市

普洱地区一帯は、大理国統治下には思摩部、元王朝時代は思麽、明代は思毛などと呼称されていたようである。 そして、清代の1735年、普洱府の管轄下として思茅庁が開設されている。1770年、 普洱府は寧洱県、思茅庁、他郎庁、威運庁および車里宣慰司を統括することとなる。 この普洱府の設置により、この西南地方に中央政権の威光が直接届くようになった。あわせて、多くの漢民族の 移住も奨励され、少数部族社会にも大きく文化融合と発展が始まり、清朝の辺境支配体制の一環に組み込まれていく。
近代に入った1913年、庁制が廃止され、思茅県へと改編される。引き続き、普洱道役所が置かれた。 2007年1月21日、思茅市が普洱市へと改名され、今日に至る。

普洱市

なお、この普洱市中心部にある思茅区であるが、清朝中期以降、西南国境の要として城壁都市(普洱府)も 整備されたようであるが、今日ではその面影は路地名にのみ残されているだけである。辺城路、環衛街、順城街、西門街、過街楼、南正街、洗馬河(昔の堀川跡)など。


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