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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広西省チワン自治区欽州市 ~ 人口 381万人、一人当たり GDP 16,000 元


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  欽州城(安州城、宋寿県城)



【 欽州市の歴史 】

欽州市一帯には、すでに新石器時代より人類の生息が確認されているという。
春秋戦国時代においては百越の地に属し、中原を統一した秦の始皇帝によって紀元前214年、この嶺南地方も併合されるに至り、史上初めて中原王朝の支配下に組み込まれることとなる。この新占領地に、南海郡、桂林郡、象郡が新設され、中央集権支配が開始される。当時、欽州市域は、象郡に帰属されることとなった。
前漢朝~後漢、三国時代そして東晋朝の時代に至るまでは、交州合浦郡合浦県(県城は今の欽州市浦北県旧市街地に設置されていた)に属された。三国時代は呉領下にあった。226年の士徽一族の討伐戦の際、呉将・呂岱がこの県城に立ち寄って、交州長官となっていた戴良と合流している。

欽州市

南北朝から宋朝、斉朝の時代、合浦郡合浦県が分離されて、西側に宋寿郡宋寿県が新設され、引き続き、交州の管轄下に置かれる。梁朝と陳朝の時代は、宋京郡安京県下の安州となる。

隋朝初期の598年、安州は欽州へと改名される。付近を流れる河川「欽江」から命名されたとも、「欽順の義」という語句から命名されたともいう。しかし、すぐ後の607年、寧越郡へと再変更されている。唐代の622年、寧越郡は欽州総管府へと改編されるなど、以後も、唐代において何度も名称や組織変更が加えられている。
宋朝および、元朝の時代、欽州路となる。
明朝初期の1369年、欽州路が欽州府へと改編される。 1375年には、欽州府から欽州へと降格され、翌1376年にはさらに欽州県へと再降格された。しかし、1381年には再び欽州へと昇格される。この間、一貫して雷州府の廉州に属した。

清時代に入っても、明代の行政区が踏襲される。
清滅亡後の中華民国時代、欽州県となり、広東省欽廉専署の下に帰属される。 1951年に一時的に広西省へ移籍されるも、1955年、再び広東省に編入される。そして、1965年7月に広西チワン族自治区の成立に合わせて、ここに再編入され今日に至る。

欽州市

なお、南北朝時代に開設された宋寿県城(安州城、欽州城)跡であるが、現在、完全に城壁、城門は撤去されてしまっており、全く何も残されていない。路地名にわずかな記憶が感じられるのみである。北営、西営、城西街、西門街、一馬路、二馬路、三馬路、四馬路、五馬路など。


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