BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 チチハル市(斉斉哈爾市) ~ 人口 562万人、 一人当たり GDP 33,000 元


 ➠➠➠ チチハル市(斉斉哈爾市)内の 城跡リスト ➠➠➠  クリック

  斉斉哈爾城(卜奎驛駅、斉斉哈爾副都統 衙門、【四代目】黒竜江将軍府、督軍署)
  福余衛城(チチハル市富裕県扎龍郷~鉄鋒区あたり)
  蒲峪路屯田万戸府城(チチハル市克東県蒲峪路鎮。【 5軍民万戸府の一つ】)
  塔子城
  金長城
  中東鉄路 駅舎



【 チチハル市(斉斉哈爾市)の 歴史 】

すでに 1万 2000年前、古代人類の生息が確認されており、約 7500年前には昂昂溪文化と呼ばれる、当地独特の新石器文明が花開いていたことが分かっている。
夏王朝時代、殷(商)王朝時代、周王朝時代には、索離国に属した。
秦代、漢代には夫余国に、魏晋南北朝時代には鮮卑族と豆莫簍族の勢力圏に組み込まれた。
隋代、唐代には、室韦都督府に統括される。

遼王朝時代、金王朝時代には、上京路と東京路に分かれて統括される。当時、主に 漢軍万戸(漢民族によって構成された地方軍閥で、主に中国北部に点在し、金朝やモンゴル軍に協力して、漢民族王朝の北宋朝や 南宋朝と戦闘を交えた傭兵集団)の居住区に指定されていた。

元代初期には遼陽行中書省下の開元路に、中期以降は遼陽行中書省下の水達達路に帰属された。

チチハル市

また明代には、1389年に開設された 福余衛(チチハル市富裕県扎龍郷~鉄鋒区あたり)に統括される(当初は大寧都指揮使司に、後に奴爾干都司に帰属)。特に 1500年代前半、兀良哈三衛を成した朵顔衛と泰寧衛が、モンゴル族の 一派・韃靼族によって占領されてしまう中、嫩江下流域の守備を司った福余衛のみが、明末まで死守されることとなった。上地図。

清代初代には盛京内務府に直轄され、間もなく新設された 寧古塔将軍(1676年に寧古塔副都統へ改編。同時にその行政庁が、今の 吉林省吉林市 中心部から、寧古塔城【今の 黒竜江省牡丹江市 寧安市中心部】へ移転)に統括される。 1683年以降は、黒竜江将軍に帰属した。

この頃、アムール側以北ではロシア人の南下と勝手な入植活動が激増し、清朝廷は度々、出兵して排除作業に追われていた。度重なる清露国境紛争を経て、ついに 1689年、ネルチンスク条約が締結され、ロシア人勢力を北へ追放するも、引き続き、国境地帯は不安定化したため、北方領土防衛のための体制強化が進められる。この一環として、清朝は東北地方一帯に、駅伝ネットワークを構築することとなった。
1685年、嫩江の東岸に 卜奎驛駅(現在の チチハル市中心部)が新設されると、以後、アムール川西部エリアの駅伝ネットワークの中核と位置付けられ、人、モノ、情報が集まるようになる。

チチハル市

そして 1691年、清朝廷はこの卜奎驛駅に城塞建造を命じる。瑪布岱(?~1705年)が築城担当に任じられると、自身の出身母体であった達斡爾族をメインの労働力として、工事が進められる(上絵図)。
最終的に完成すると、 1699年、黒竜江将軍衙門(行政庁)が 墨爾根城(今の 黒竜江省黒河市 嫩江市中心部)から、この チチハル市(斉斉哈爾市)城へ移転されくる。以後、清末に至るまで、 黒竜江将軍衙門と チチハル(斉斉哈爾)副都統衙門(行政庁)が、共に城内に併設されることとなった。下絵図。

この築城の功績により、瑪布岱は 副都統銜(副都統銜索倫総管)に任じられる。

チチハル市

チチハル市

チチハル市

1905年、このチチハル城に黒竜江分巡道、及び、その下部組織の黒水庁役所が新設されると、チチハル(斉斉哈爾)市一帯を統括した。翌 1906年、チチハル(斉斉哈爾)副都統が廃止される。

さらに 1907年には、黒竜江将軍も廃止され、黒竜江行省が新設されると、黒水庁が龍江府へ改編される。以降、現在の チチハル(斉斉哈爾)市域は、龍江府に属した。

チチハル市

1931年、満州事変(九一八事変)後、日本軍が チチハル市(斉斉哈爾市)を占領し、龍江省の省都に定める。1936年、チチハル市(斉斉哈爾市)市が成立する(そのまま龍江省に帰属)。

1945年、日本の支配が終わると、新生チチハル市(斉斉哈爾市)は、嫩江省に統括され、その省都を兼務した(1949年、黒竜江省に吸収合併される)。
1954年、黒竜江省の省役所が チチハル市(斉斉哈爾)から ハルビン市 へ移転されると、チチハル市(斉斉哈爾市)は省直轄都市に定められる。


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