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雲南省曲靖市 ~ 人口 586万人、 一人当たり GDP 21,000 元


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  南寧県城(曲靖府城・味県城)



【 曲靖市の歴史 】

付近の宣威格宜尖角洞や曲靖珠街八塔台などにある古代遺跡の発掘調査から、早くも旧石器时代には南盤江流域一帯に人類の生息が確認されているという。3000~4000年前、曲靖一帯に居住した先住民たちはすでに農耕文明を有していたとされる。
紀元前280年、戦国の七雄の一つであった楚国の頃襄王(紀元前298~紀元前263年)は、同じ皇族の末裔であった大将軍の莊蹻を四川、雲南、貴州方面へ派遣し、2年かけて一帯の武力平定に成功する。当時、四川盆地の蜀と巴と呼ばれた一帯は紀元前316年から秦国の支配下となっており、楚国の後背地を脅かしかねないロケーションであったため、楚国はこの占領を決行したわけである。しかし、すぐに蜀と巴地方は秦国に再奪取されてしまい、楚国への退路を断たれた莊蹻と楚軍は、この雲南の地に、古滇国という独立国を建国することとなる。当時から雲南地方の最大の湖であった滇池の周辺一帯を勢力圏に治め、その王都は現在の昆明市晋寧県(昆明市街区の対岸にある)に築城された。
以後、現在の曲靖一帯は古滇国と中原諸国との交易路上にあったため、都市の発展が進められていったようである。当時から靡莫族が多く居住する地域であったらしい。

曲靖市

紀元前221年に、秦国により斉国が滅ぼされ、中原が統一されると、雲南方面や華南方面への領土拡大策が採られ、古滇国も北側の領土を併合される。
雲南省北部を割譲した秦国は、四川盆地の宜賓(かつての僰道)から曲靖(当時は建寧と呼ばれた)までの街道「五尺道」を整備する。これにより、中原文化が直接、雲南地域の「西南夷」部族らに伝播されるルートが初めて確立されることとなった。

前漢王朝時代の紀元前109年、武帝により西南地域への勢力拡大が図られ、古滇国などの諸部族の征伐とともに益州郡が新設され、中央集権による行政制度の確立が進められた。益州郡の下に、味県(現在の曲靖市中心部)、牧靡(現在の導甸)、銅漱(今の馬龍)、因労(今の陸良)など諸県が配されることになる。

曲靖市

時は下って、三国時代。蜀の劉備死後、雍闓(ようがい)を中心に、雲南一帯の諸郡も蜀への反抗を強め、呉の孫権へ帰属しようとする。すでに、劉備率いる蜀軍の大敗を知り、帰属先を呉に変更していた交州の士燮の仲介も経て、一時的に呉の勢力圏下に組み込まれることになる。さらに、曲靖市出身であった孟獲もこの指令を受け、周辺部族らの説得工作を進めていく。しかし、225年、蜀本軍の諸葛孔明が南蛮遠征を決行するに至り、首謀者であった雍闓は殺害され、孟獲が代わりに総大将として祭り上げられる。こうして同年9月までの約半年にわたる戦いを経て、かつてより雲南地方の中心地域であった「滇池」の湖畔地帯(現在の昆明市南)にまで蜀軍が至り、孟獲は完全降伏する。孔明は反乱軍の平定後、益州郡から分離させて建寧郡を新設し、今の曲靖中心部にあたる味県城にその郡行政庁を開設して、蜀軍を駐留させることで、雲南地域の軍事・統治・経済の中心拠点と定めて、成都に戻っている。

曲靖市

263年に蜀を滅ぼした魏国より権力禅譲を受けた西晋王朝下の270年8月、建寧、雲南、永昌、興古の4郡は解体され、寧州が新設される。そして、その州行政庁が味県に開設されて、中央政権の直轄と定められた。当時、全国的な行政区分の再整備が進められており、寧州は全国に新設された19州(司州、兖州、豫州、冀州、幽州、平州、雍州、凉州、秦州、梁州、益州、青州、徐州、荊州、揚州、交州、広州、並州)の一つを占めた。つまり、味県城は全国19州の州都の一つとされたのである。


南北朝時代、北周王朝は爨氏を寧州刺史に任命する。しかし、北魏国内に設置された寧州(甘粛省内)と区別するため、雲南の寧州は南寧州(甘粛省の方は北寧州)へと改名される。このとき、始めて「南寧」の地名が誕生することとなった。
南北朝を統一した隋王朝は、味県城に南寧州総管府を開設するも、南蛮地域の部族らの反乱が度々起こり、この地域に2回の大規模遠征軍が派遣される。このとき、徹底的に南寧州一帯の集落や商家が破壊されるも、すぐに荒廃した味県古城(前漢時代から使われていた)の再建が進められた。

唐王朝の成立後、全国的に郡制度を廃止し、州を設置する。南寧州は隋朝時代の範囲をそのまま継承された。 634年には南寧州から郎州へと改名され、郎州都督府が設置されるも、717年に再び南寧州都督府へと戻される。ちょうどこのころ、雲南地域は地方豪族と部族が台頭し、治安が急激に悪化していった。当時の都督であった韋仁寿は、味県城内の軍民を移住させるべく、北8kmのところ(現在の曲靖市街区の白石江公園付近)に石城を新たに築城する。
唐代の天宝年間にはますます民族反乱が多発し、当時、最も強大であった南詔国と唐朝との間で三回にも及ぶ大規模戦争が勃発する。曲靖一帯を制圧した南詔国は、748年、この地に拓東節度使を設置している。そして、755年の第三次天宝戦争の際、唐軍は二十万にも及ぶ将兵を失い、雲南地域の支配権を完全に喪失することになる。雲南地域の政治、経済、軍事の中心は、南詔国の王都があった大理へと移り、ここに530年にも及んだ曲靖地区の雲南地方の中心都市としての役割は終わりを告げる。
南詔国とこれに続く大理国は、唐側が築城した石城に行政庁を開設し、石城郡を新設する。大理国王朝下の971年、この石城内にて、大理国と磨弥民族など周辺37部族長との血盟同盟が結ばれ、雲南地域の統合の象徴となる。

時は下って1253年、フビライ率いるモンゴル軍が金沙江を渡河し、雲南地域に侵攻する。三か月後に大理国は降伏し、2年後には雲南全域がモンゴルの支配下に入る。元王朝は、石城内に磨弥万戸府と石城千戸を設置し、さらに1271年、磨弥万戸府を中路総管府へと改編する。続いて1276年に、中路総管府が改称され、曲靖路総管府となり、石城千戸は南寧州となった。

1368年、明の朱元璋により元朝は大都(現在の北京)を追われ、 中原が漢民族の手に落ちる中、引き続き、梁国王であった把匝刺瓦爾密(元朝初代皇帝のフビライは、自身の第6男であったフゲチを1267年、雲南王に封じ、 この地に派遣していたわけであるが、その子孫にあたる)は、この封地にあった。 明軍が四川省にあった夏国を滅ぼし、すぐ北へ迫る中、明朝からの度々の降伏勧告(雲南地域の 自然環境を考慮し、力攻めには消極的であった)をはねつけ、 ついに、明軍30万の侵攻を受けることになる。
1381年、明朝は潁川侯の傅友徳、永昌侯の藍玉、西平侯の沐英を3大将とし、雲南地方への侵入を開始する。 石城周辺の諸民族と雲南の把匝刺瓦爾密らのモンゴル残党勢力の連合軍十万と の大決戦がこの地で行われた。これが史上有名な石城の戦い(別名、白石の戦役) 【曲靖市街区の北にある白石江公園付近】である。最終的に元軍を大敗に追い込み、 ここに明王朝による中国全国統一が成る。 翌1382年早々、把匝刺瓦爾密らは自刃して果てる。
この戦争で中心都市「石城」が荒廃してしまったため、1387年、かつての漢代の味県城跡地に新しく城壁都市が築城される。完成後の1394年、曲靖府が曲靖軍民府へと昇格され、南寧県城内(現在の曲靖中心部)に行政庁が開設されることになる。 この南寧県は、明朝から清朝時代にも継承され、清朝時代の1765年、曲靖軍民府は曲靖府へと改編された。この曲靖府が置かれた曲靖は、以後 600年間、南寧県の政治・経済・文化の中心都市であり続ける。南盤江の水運を活かした商業の発達と、その豊かな水資源を活かした農地開墾が進むとともに、多くの移民も流入し、中原文化の伝播もあって、大いに繁栄を謳歌したという。
1913年の中華民国成立後、曲靖府が廃止され、あわせて南寧県は曲靖県へと改名される。

曲靖市

なお、この曲靖府城(南寧県城・味県城)跡であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影は南門楼閣跡と市街地に残るわずかな路地名に残されているのみである。西関街、西門街、南城門広場、東門街。


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