BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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浙江省 衢州市 ~ 人口 260万人、 一人当たり GDP 55,000 元


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  西安県城(新安県城、信安県城、信安郡城、衢州城)
  太末県城(龍丘県城、龍游県城)
  常山県城(定陽県城、龍丘県城、龍游県城)
  江山県城(須江県城)
  開化県城(開化場鎮城)



【 衢州市の 歴史 】

衢州市一帯では、約 6000年前の新石器時代より人類の生息が確認されているという。天然の地形と温暖な気候の恵みを受け、この当時からすでにミカンの木が数多くなっていたようである。

春秋時代の初期には姑篾国の領土下に、後に越国の属国の一つである姑蔑国の版図下に置かれた。戦国時代期には、越国を滅ぼした楚国の勢力圏に組み込まれる(紀元前 334年)。

衢州市

その楚国も、紀元前 223年、秦国の総攻撃により滅ぼされる。以後、秦朝により、かつての呉越の地に会稽郡が新設され、今の衢州市一帯は、会稽郡下の 太末県(現在の 龍游県の旧市街地)の管轄区に組み込まれた。

紀元前 202年に前漢朝を建国した劉邦は、翌紀元前 201年、すぐに建国の功臣であった韓信を謀反の罪で失脚させ、その所領を南北に分割し、南部を荊国、北部を楚国と定める。このとき、現在の衢州市エリアは荊国の管轄域に入っていた。その荊国王には、劉邦自身の従弟である劉賈が封じられる(楚国王には異母弟の劉交を封じた)。

しかし、紀元前 196年秋に、淮南王の英布が自身も排除されかねないとの危惧から反劉邦を掲げて挙兵した際、その討伐軍を率いて荊国王の劉賈も劉邦陣営に参加するも、この戦いで戦死してしまう。彼の死後、荊国は廃止され、翌紀元前 195年、新設された 呉国(劉邦の実兄の長男であった劉濞が国王に封じられる)の地に編入されることとなる。

衢州市

その呉国も紀元前 154年、劉濞が前漢朝 6代目皇帝・景帝との不仲から反乱を起こすも、翌年早々には惨敗し劉濞自身も殺害されることで、呉国自体が廃止されることとなる。以後、前漢朝廷の直轄地として会稽郡が復活設置されることとなった。

衢州市

後漢末期の 192年、太末県(現在の龍游県)から新安県が分離・新設される(同じく会稽郡に帰属)。これが現在の衢州市中心部の発祥となる。

三国時代には呉領下に属し、218年、新安県から定陽県が 分離・新設される。さらに 226年には、新安県が、新設された 東陽郡(郡役所は 長山城内【今の 金華市婺城区】に開設)の管轄下へ移籍される。
その呉も 280年に西晋の侵攻を受け、降伏する。こうして三国を統一した西晋朝は、すぐに旧呉領の行政区再編を進めることとなる。すでに西晋領にあった 弘農郡新安県(河南省霊宝市)と同名であったため、新安県は信安県へ改名される(引き続き、東陽郡に帰属)。なお、この「信安」の由来であるが、信安溪という地元の名勝地から命名されたとされる。
下の地図は、東晋時代のもの。

衢州市

南北朝時代、南朝の 宋、斉、梁の三王朝の治世下でも、三国時代からの行政区がそのまま踏襲される。
南朝最後の王朝となった陳王朝の統治下の 559年、東陽郡から信安郡が 分離・新設される。郡役所は信安県城内に開設され、信安県と定陽県の 2県を管轄することとされた(縉州に帰属)。

南北朝時代を統一した隋朝の治世下の607年、太末県と定陽県の2県が廃止され、信安県に吸収合併される(あわせて、信安郡も廃止され、東陽郡へ編入される)。

唐代の 621年、婺州が分割され衢州が新設される(州役所は信安県城内に開設)。あわせて、 須江県(今の江山県)と 定陽県(今の常山県)の 2県が新設される。衢州の地名はこの時から使用されており、その由来はちょうど山岳地帯の交通の要衝に位置し、3方向(今の 江山県、常山県、開化県)への陸路の分岐点を意味したことから命名されたとされる。
同年の 621年、太末県の西部が分割され白石県が新設され、この 2県(太末県と白石県)を統括するための濲州も新設されることとなる(州役所は白石県城内に開設)。
間もなくの 624年、衢州が廃止され、定陽県,須江県、白石県、太末県の 4県が信安県へ吸収合併され、婺州の帰属となる。

衢州市

634年、信安県と 金華県の 2県から 龍丘県が 分離・新設される(かつての太末県城跡が改修され使用された)。686年には衢州が再設置され、信安県、龍丘県、常山県の 3県を統括するものされた(江南道に帰属)。州役所は前回同様に信安県城内に設置される。692年には龍丘県の西部が分割され盈川県が新設される。このとき、衢州が 信安県、龍丘県、須江県、常山県、盈川県の 5県(695~758年、一時的に新設された玉山県も追加され、6県体制となる)を統括することとされた。
812年には、盈川県が廃止され、信安県へ編入される。唐朝末期の 870年ごろに、信安県は西安県へ改称される(西溪から命名)。

五代十国時代、衢州は 呉越国(907~978年)の領土下に帰属し、引き続き、西安県、龍游県(931年に龍丘県から改称)、常山県、江山県の 4県を統括した(州役所はそのまま西安県城内に開設)。
下の地図は南宋時代の衢州一帯を表す(地図中には、北宋時代の 981年に開化場から昇格された開化県も見える)。

衢州市

時は下って、明代の 1359年、元代からの衢州路が龍游府へ改名されるも、 1366年に龍游府が衢州府へ戻されることとなる。この間も、ずっと西安県城が中心都市であり続けた。
1424年には越王府が建設されるも、すぐ後の 1427年、越王府が撤去される。

1472年、龍游洋埠の一部、さらに 遂昌八、九両都、金華湯溪、蒋堂、蘭溪游埠などから構成される湯溪県が新設され、金華郡に帰属された。

清代も引き続き、明代の行政区が踏襲された。衢州府は浙江省金衢厳道の管轄下に置かれた。1651年には浙閩総督の役所が西安県城内に移転されてくる。 1684~1911年の一時期、西安県が衢州府の管轄から離脱され、直接、金衢厳道の直轄都市となる。最終的に、1911年8月に衢州府へ再編入され、衢州府の府都とされた。

中華民国時代に入って、西安県が衢県へ改称される。

衢州市

なお、現在の 衢州市中心部(柯城区)の旧市街地にあった 西安県城跡(新安県城跡、信安県城跡、衢州城跡)であるが、衢江の河沿いに 城門(西安門と大西門【水亭門】、小西門【和豊門】)、および 南大門(礼賢門)が残されており、 城壁の一部も保存されている。 さらに、北側と 南側、東側の堀川もそのままの位置に残っており、だいたいの城郭時代の規模を 推察する助けとなる。近代以降に都市開発された一帯が城外の南側に広がっており、他都市に比べ、 旧市街地の破壊が軽微であったことが大きい。
旧市街地内には、かつての城郭都市時代を偲ばせる路地名や地名がたくさん残されていた。 斗潭河(かつての北側の堀跡)、南湖(かつての堀川跡)、北門街、北門橋、水亭街、県学街、道前街、天官街、坊門街、中河沿(城内に流れていた小川跡)、東門街、府東街、鐘楼跡、三橋街、県西街 など。

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