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山東省日照市 ~ 人口 300万人、 一人当たり GDP 61,000 元


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  莒県城(莒国の王都跡、琅琊郡城、城陽郡城)
  海曲県城
  高陽県城
  日照県城



【 日照市の歴史 】

夏王朝時代には莒族の集落が点在し、商王朝時代には姑幕国の、周王朝時代には莒子国の版図下に組み込まれた。

西周時代から春秋時代初期にかけては、莒国(その王都は計城【今の山東省青島市膠州市南関城子村】から、後に莒城【今の日照市莒県城陽鎮】へ遷都)の領土下にあり、その領域は相当に広大であった。当時から介根、夷維、牟婁、諸、琅琊、鄆、密、向、余丘、紀障などの31の城邑が開設されていたという。
莒国は一時期、山東半島の南半分を領有するまでに拡大し、斉国や魯国、晋国などと同盟を結び、周辺諸国との戦争を積極的に主導したほどであった。下地図。

日照市

紀元前686年夏、斉国の公子である小白が、兄の襄公(斉国第14代君主)の恐怖政治から避難すべく、重臣の鮑叔牙(別名:鮑叔、鮑子)と共に莒国へ亡命する。
間もなく、襄公が同じ皇族の公孫無知に暗殺され、公孫無知がそのまま第15代君主として即位する。しかし、その公孫無知も翌紀元前685年に同じく暗殺されてしまう。

ここに君主が空位となった斉国王に即位すべく、魯国に亡命中の公子糾と、莒国に亡命中の公子小白が競って帰国の途に就き、先に王都に戻った公子小白が第16代君主(桓公)に即位することとなる。

このエピソードに由来して、「勿忘在莒」という故事成語が誕生する。
辛苦艱難を忘れるな、という意味の言葉で、莒国に亡命しつつも、最後には斉国王の座を奪い取った桓公の七転八起の精神を象徴したものである。大陸中国で共産党政権が確立された折、台湾へ逃れた蒋介石が国民党軍を鼓舞するために、常時、この成句を訓辞として使用したという。

春秋時代も後半に入る頃には、周辺の諸国からの侵略を受け、莒国の領土は縮小の一途をたどった。

臨沂市 臨沂市

最終的に、戦国時代下の紀元前431年、莒国は楚により滅ぼされ、その旧領土のほとんどは楚国に併合されてしまう。上地図。
しかし、後に斉国の領土に組み込まれる。

紀元前350年、斉国は長城の築城に着手し、旧莒国を横断する形で、東莞県の北部にある山脈地帯から琅琊県のある海岸地帯へと通じる長大な城壁が完成する。下地図。

日照市

しかし、紀元前284年、燕国の将軍・楽毅が五ヶ国連合軍を率いて斉国領へ侵入すると、半年後には斉国の王城であった臨淄城は陥落し、斉の湣王は莒城(今の日照市莒県城陽鎮)へ逃亡する。
翌年、湣王が宰相の淖歯に殺害されると、代わりに、その子の法章が莒城で襄王として擁立される。斉国の残党勢力はそのまま莒城に立てこもり、6年に及ぶ籠城戦を戦い抜くこととなる。下地図。

このとき、楽毅は斉国下の70余城を陥落させ、残すところ、莒城と即墨城のみにまで追い込むも、即墨城の守将となっていた田単が火牛の計で燕軍を撃破すると、すぐに70余城を再奪還し、 斉国はかつての勢力圏を取り戻すことに成功する。田単はその戦功により、安平君に封じられる。

日照市

しかし、紀元前221年、秦の始皇帝の前に斉国も降伏することとなり、その旧領にも郡県制が導入される。
旧斉国下でも要害の地であった莒城(今の日照市莒県城陽鎮)が莒県へ改編され、琅琊郡(郡都は琅琊県城【今の山東青島市琅琊鎮夏河城】)に帰属されることとなった。

前漢時代初期の紀元前201年12月、城陽郡(郡都は莒県城)が新設される。このとき、同時に海曲県も新設されている。
同時期、琅琊郡役所が琅琊県城から東武県城(今の山東省濰坊市諸城市)へ移転され、 51県を統括することとなる(徐州に帰属)。下地図。
紀元前178年には、城陽郡が城陽国へ改編される(王都はそのまま莒県城)。下地図。

日照市

後漢時代の41年、光武帝が自身の子の劉京を琅琊王に封じると、琅琊郡は琅琊国へ改編される。王都は引き続き、莒県城(今の日照市莒県城陽鎮)に開設された。
80年、琅琊国の王都が開陽県城(今の山東省臨沂市の中心部)へ移転される。この時代、琅琊国下には13県が配された。

216年、後漢朝の丞相となっていた曹操が琅琊王の劉熙を処刑すると、琅琊国が琅琊郡へ再編される。以後、琅琊郡は開陽県(郡都を兼務)、臨沂県、陽都県、繒県、郎丘県 、華県、費県、安丘県、劇県の9県を統括することとされる。

後になって、琅邪郡、北海郡、東莱郡、東海郡の一部が分離され、城陽郡、利城郡、昌慮郡が新設される。 このとき、城陽郡下には東武県(郡都を兼務)、莒県、諸県、姑幕県、壮武県、淳于県、高密県、昌安県、平昌県、夷安県、安丘県、黔陬県が配された(青州に帰属)。下地図。

日照市

西晋時代も、この行政区が踏襲される。
この頃、城陽郡下には莒県(郡都を兼務)、姑幕県、諸県、淳于県、東武県、高密県、壮武県、黔陬県、昌安県、平昌県の10県が存在した。上地図。
282年には、莒県、姑幕県、諸県、東武県の4県が東莞郡へ移籍される。
299年、城陽郡が再び分離され、そのうちの数県が平昌郡と高密国へ転出され、最終的に城陽郡は廃止される。


南北朝時代には、青州下の東莞郡に、後に、莒州下の義塘郡に属した。
北魏朝の治世時代、郡役所が即丘県城(今の山東省臨沂市河東区湯河鎮故県)へ移転され、即丘県、武陽県、費県、新泰県の4県のみ統括することとなる(北徐州に帰属)。
また、この頃、莒州下に梁郷県が新設される。

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北斉朝、北周朝もこの体制が踏襲された。上地図。

隋代の583年、琅琊郡が沂州へ改編されるも、配下の4県はそのまま継承される。
607年、沂州が琅琊郡へ再変更されると、郡役所が臨沂県城(今の山東省臨沂市の中心部)へ移転される。このとき郡下には、臨沂県、費県、顓臾県、沂水県、東安県、莒県、新泰県の7県が配された。

唐代初期の621年、琅琊郡が再び、沂州へ改称される。
州下には、臨沂県(州都を兼務)、費県、沂水県、承県(今の山東省棗庄市澤城区の西側 500m)、 新泰県(今の山東省泰安市新泰市の中心部)の5県が配された。

五代十国時代から北宋時代を通じて、最初は河南道下の莒州に、後には河南道下の密州に属した。下地図。

日照市

1087年、莒県下に日照鎮が新設される。これが現在の市名「日照」の最初の登場となる。
1184年、日照鎮が日照県へ昇格され、益都府下の莒州の統括下に置かれる。

金代、元代も莒州(州都は莒県城)が踏襲される。

明代には莒県が廃止され、莒州の直轄地に編入される(青州府に帰属)。

下は、倭寇に襲撃された地区を示す。山東省でも諸城県城(今の山東省濰坊市諸城市)や即墨県城(今の山東省青島市即墨市)、日照県城(今の日照市の中心部)、贑楡県城(今の江蘇省連雲港市贑榆区)などの一帯が標的になった。

臨沂市

清代も、莒州(州都は莒県城)が踏襲される。後に直隷州へ昇格されるも、最終的には散州(配下に県城を有しない単体州)に降格される。
当初は山東布政司下の青州府に、後に山東省下の沂州府に帰属した。


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