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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省汕頭市 ~ 人口 540万人、 一人当たり GDP 31,000 元


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  潮陽県城
  澄海県城



【 汕頭市の歴史 】

汕頭市中心部は、広東省東部を流れる韓江、榕江、練江が海へと至る河口部に位置しており、また市街地は汕頭湾によって左右の対岸に分断されている。その地理的な有意性から、漁村や水運港として、古くから人々の往来や定住があったとされる。

春秋戦国時代においては、百越の地に分類されており、紀元前214年に秦の始皇帝により嶺南地方一帯が武力併合された際、この地も中原政権の支配下に組み込まれることとなる。翌213年、秦朝は南海郡を設置する。郡県制の導入が図られ、汕頭市一帯は南海郡揭陽県の管轄下に入り、この行政区は西晋朝末期まで継承されていく。

東晋朝時代の326年、南海郡の東部が分離され、東官郡が新設される。 331年、秦代から続いた揭陽県が廃止され(揭陽戌城も廃城となる)、その行政区が海陽県(今の潮州市)、潮陽県、緩安県(今の福建省雲霄県)、海寧県の4県へ分割される。すべて東官郡の帰属とされた。
なお、現在の汕頭市一帯が帰属した「潮陽県」であるが、「処山の南、海の北」というロケーションから命名されたとされる。
汕尾市

東晋王朝末期の413年、東官郡の東部がさらに分離され義安郡(後の潮州へ発展する)が新設される。潮陽県はここの帰属とされた。
その後、南北朝時代や隋朝時代、幾度かの変更があるも、基本的に義安郡潮陽県として存続し続ける。
唐代の650年、潮陽県は海陽県へ吸収合併され、潮州の管轄下に入る。 712年、再び潮陽県が復活され、その県役所は臨昆山(孤山、公孤山とも呼称された)に開設される。今の銅盂と平両鎮が交わる小北山の南側の麓であった。
733年、潮州は江南道、翌年には嶺南道の統括下に入り、潮陽県もここに帰属された。742年、全国的に州制が廃止され、郡制へ統一されたことにより、潮州が潮陽郡へと改名され、潮陽県、海陽県と程郷県の3県を統括するものとされる。 758年、潮陽郡は再び潮州へと変更されるなど、幾度かの変更を経るも、継続して潮陽県はその下に帰属されていく。 819年、潮州刺史であった韓愈定は潮陽県城を新たに新興郷棉陽(今の潮陽市街区―旧名称は棉城鎮と呼ばれていた)へ移転し、新たに城郭都市を建造する。
南宋時代の1132、再び海陽県へ吸収合併されるも、10年後に再度、潮陽県が再設置される。また、現在の市街中心部にあたる砂尾(今の金砂郷一帯)や、南片埔(汕頭市龍湖区龍新五街付近)、濠江(汕頭半島部分)では、このころから集落が形成されつつあり、潮陽県下の招收都という地方行政庁が管轄していたとされる。

元代には潮陽県は潮州路の下に帰属された。なお、河口部の光華埠一帯にはすでに漁村・水運交易集落の一大拠点が形成されていたようで、現在の汕頭市街地一帯は厦嶺と呼ばれていたという。
明代初期の1369年、潮州路は潮州府へと改名される。また、倭寇対策もあり、河口部(現在の汕頭市街地)には蓬州守御千戸所が設置される。さらに1525年、潮陽県下の隆井都の3分の1、および大坭、酉頭、恵来の3都から成る恵来県が新設される。同じく1563年、洋鳥と氵戎水、黄坑の3都が分離されて、普寧県が新設される。1581年、洋鳥と氵戎水の2都が、潮陽県へ再編入される。
また、河口部は1500年代前半に新設された澄海県の管轄下におかれる。
当時の漁師らは、沙背半島が海へ伸びていたため、これを利用して網を張る漁業が盛んとなり、その場所を沙汕と呼ぶようになったという。

汕頭市

清代初期、台湾に逃れた鄭成功の明残党勢力や倭寇への防衛戦線の一つとして、沙汕半島の岬に炮台が設置される。
清代を通じ、引き続き、潮陽県は潮州府の下に置かれた。このころ、河口部一帯の地名として、汕頭という呼称が一般化していたとされる。
清末の1858年4月、広州を占領した英仏連合軍は大沽口(天津市の海岸防衛ライン)へ迫り、米国、ロシアも加わって、大沽の外海に駐留し、清朝政府に講和交渉を要求する。ここに天津条約が成り、開港場所として潮州(後に汕頭へ変更)、台南も通商港として開港が決定された。台湾南部の台南は特に砂糖と烏龍茶が重要な交易商品であったが、すでに英国とオランダが独占しており、新規参入組のロシアや米国にとってはメリットのない港湾であったため、この時に開港した潮州港はこれらの新興勢力にとって重要な参入都市となったようである。

汕尾市

さて、現在の汕頭市中心部であるが、元代にはすでに一大海運交易集落が形成されていたようであるが、行政庁や城郭が築造されることもなく、附近の潮陽県の監督下に置かれたままの一地方であったようである。主に清末の開港期以後に開発された都市であるため、遺跡は存在していない。

汕尾市域でも最も古くに県城が築城されたのは、唐末からの潮陽県城であった。現在でも西門やその周囲の城壁の一部が保存されている。しかし、それ以外の城壁類はすべて撤去されており、かつての姿はもはや目にできない。しかし、その面影は今に伝わる地名や路地名から概要を察するに十分であった。路地のプロットから分かる潮陽県城は、その規模が相当に大きなものであったということだ。西環城路、南中路、南関市場、城南公園、銀行西門分店、西関路、城北一路、水門路(かつて城内に巡らされていた水路が通った跡)、北関路、護城河、東山公園、東門橋など。

汕尾市

また、汕尾市澄海区にも、かつて澄海県城が建造されていた(明代中期に築城)。今でも西門付近の城壁や城門が保存されている。また、旧市街地にはかつての記憶がしっかり地名や路地名に刻みこまれていた。環城南路、西門、西門楽天園、城北益華園市場、環城北路、北門真街、寺后街、澄海城北小学、南門頭総合ビル、澄城衛前市場、衛前橋南西小区、南橋など。
城郭都市の海側には、倭寇対策なども兼ねて、明代、清代には兵士駐屯所が設置されていたようである。

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