BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 韶関市 ~ 人口 330万人、 一人当たり GDP 48,000 元


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  韶州城
  南雄県城(南雄府城)



【 韶関市の 歴史 】

13万年前には人類の祖先種とされる馬壩人が跋扈した地域とされ、中国古代文明の一つである石峡文化の地とされる。
韶関市域は、春秋時代には百越の地に分類されており、戦国時代には楚国により平定され、その領土下に組み込まれていた。紀元前 214年に秦の始皇帝により嶺南地方が武力併合されてからは、南海郡(郡役所は今の広州市に開設)の管轄下に置かれた。しかし、秦朝も間もなく滅亡し、再び中原が戦乱となる中、この嶺南地方に建国された南越国の版図下にあって、引き続き、南海郡に帰属された。

前漢王朝の武帝により、紀元前 111年に南越国も滅ぼされ、嶺南地方が前漢朝の領土に併合された後、華南地方に交州が設置され、その下に9郡が置かれる。このとき、秦代の南海郡から北側の一部が切り離されて、荊州の桂陽郡(郡役所は今の湖南省郴州市に開設)に組み込まれる。この地域に曲江県が含まれるわけであるが、これが現在の韶関市一帯であった。この曲江県役所は今の韶関市街区の東南部の蓮花嶺(曲紅山)の麓に開設された(今の韶関東駅の一帯)わけであるが、この瞬間こそ韶関市の起源とされており、2100年以上の歴史を有する古都と称される所以である。

前漢王朝より権力を簒奪した王莽により、新朝が建国されると、桂陽郡は南平郡へと改名されるも、王莽の死により後漢王朝が復活すると、すぐに桂陽郡へ戻される。後漢朝後期には全国各地の軍閥らが台頭し、また民衆や部族反乱が相次いだこともあり、桂陽郡の南部地区に始興都尉が新設され、特に曲江県一帯の統括が強化されることとなる。

韶関市

三国時代、この地は呉の領土下に組み込まれており、265年、桂陽郡の南部が分離され、同じく荊州の管轄下で始興郡が新設される。郡役所は曲江県城内に開設された。
280年、司馬炎の西晋に呉が降伏することにより、三国時代が統一された後、始興郡は荊州から分離されて、広州の管轄下へ移籍される。あわせて、曲江県城は 安聶邑(今の 市街地に流れる武江の西岸側)へ移転される。

八王の乱の後に擁立された 西晋朝第 3代目皇帝の懐帝(司馬熾)の治世初年度の 307年、荊州の南半分が分離され、新たに湘州(州役所は今の湖南省長沙市)が設置された際、曲江県は広州から分離されて、この湘州の管轄下に入る。引き続き、始興郡都であり続けた。

東晋時代の 328年、湘州は廃止され、曲江県は再び荊州下の始興郡となる。同時に、このとき郡役所が今の韶関市街区の西南部へ移転される。

南北朝時代を通じて、引き続き、曲江県城は始興郡都のままとされるも、その帰属先は広州、湘州、東衡州など度々の変遷を見た。また、県役所、及び郡役所は再び、西岸側から蓮花山の麓の古城へ再移転されている。隋代初期も東衡州下にあって、曲江県城は始興郡の中心都市であり続けた。
隋代の 589年、韶州府へと改称される。州内の北部にあった丹霞山脈の名勝「韶石山」にちなんで命名されたという。このとき、広州(後に番州、南海郡へ改名される)の帰属となる。
唐代 627年、東衡州が韶州へ改称される(嶺南道の管轄下に入る)。

腐敗した貴族政治が中央集権体制のほころびを助長し、 崩壊寸前となった唐朝末期のころ、中国全土では民衆や豪族らの反乱が 頻発する。中央では後梁が唐朝から権力を簒奪し、王朝交代が成るも、 引き続き、地方では軍閥が割拠し、また各地の反乱鎮圧戦が繰り返される時代が続いた(五代十国時代のはじまり)。 こうした中、広東・広西地方の反乱を平定し、静海軍節度使となった劉隠は、 華南地方に独立勢力を形成していく。中央を抑えた後梁朝は、劉隠の領土を 認定し、909年に南平王、911年には南海王に封じる。しかし、911年に劉隠が 死去するに及び、息子の 劉龑(劉岩)がその地位を継承する(後の 917年には南漢国を号し、 完全に独立国となる)。
ちょうど、劉龑が父の後を継いだばかりの 911年、先の華南地方での戦乱により破壊されてしまっていた 韶州城の復興工事が開始される。 このとき、州城は河の 中州部分(今の湞江区旧市街地、地元では小島と呼ばれる)に新たに築城されることとなる。これ以後、韶州城は清末まで中州内に位置し続けることとなる。

元代、明代、清代を通じ、広東道(省)下の韶州路や韶州府などへ改称されながらも、引き続き、州の中心都市として君臨していく。 この時代、韶州城内に水陸 3つの税関が設置されていたため、韶関とも別称されていたという。

時は下って、日中戦争時代の最中、この「韶関」の俗称が、正式にこの地の行政区名として採用されることとなる。
中華民国が成立後、広東省の帰属となる。 1975年、韶関市にて市制が開始され、現在に至る。

韶関市

なお、現在の韶関市の中州に位置する旧市街地は、五胡十六国時代の(まだ独立には至らず後梁朝に服属していた)南漢国下で築城された 古城跡(韶州城)がベースとなっている。しかし、現在は城壁も城門も全く残されていない。わずかな地名にその名残が感じられるだけである。バス停留所「北門」、曲江橋(南門大橋)、紅城堡(中山公園南門)など。

また、三国時代の 265年、呉の孫休の治世下で新設された 始興郡(郡都は曲江県城に開設)に加えられた県城の一つである 始興県城跡(263年、南野県南部より分離・新設された) であるが、現在の韶関市始興県の旧市街地を形成する礎となった。東門路、城東病院、 城北路、城北村、南門路などが地名で残る。

韶関市

また上の古絵図は、明代に韶州府と並び府城を設置されていた 南雄県城跡(韶関市南雄の旧市街地)の全体図であるが、現在、遺跡は全く残されていない。 しかし、やはり現在に残る路地や地名にたくさんの城壁都市時代の記憶が刻みこまれていた。環城西路、環城東路、北門路、馬路口路、羅漢井路、北門賓館など。

韶関市


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