BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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浙江省 紹興市 ~ 人口 505万人、 一人当たり GDP 77,000 元


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  山陰県城(越国王都、会稽郡城、会稽県城、呉州城、紹興府城)



【 紹興市の 歴史 】

紹興市一帯は新石器時代中期に小黄山文化が興って以降、今日に至るまで 9000年近い歴史を有する地域である。

夏王朝のころ、越、もしくは大越と呼称されていた。時の大王・大禹が治水工事を完成させた折、これに協力した地元豪族長らを集めて慰労と弔いの酒宴を付近の茅山で開催する。このとき、作業中に死亡した多くの人員らの遺体をこの茅山に埋葬したため、茅山は「会稽山」と改称されることとなる。これが後に続く「会稽」の地名の由来となった。

春秋時代の紀元前 490年、越民族らが中原王朝から独立し、会稽の地(今の紹興市の旧市街地)を王都ととする越国を建国する。以後、紹興市は 2500年の歴史を有する古都として今日まで存続していく。

紹興市

そして、戦国時代初期に越王の勾践が呉国を破り(臥薪嘗胆のエピソード誕生)、越国の勢力が長江・淮水の下流域一帯にまで拡大されることとなる(上地図)。
しかし、その越国も紀元前 334年、楚国の威王により滅ぼされる。こうして旧越国の諸侯らは楚国に服従することとなった。もしくは、一部の旧越国の貴族や庶民らは、当時、閩と呼称されていた福建省方面へ逃れて、現地化していく者も多かったとされる(文化・民族的な混合地帯という意味で、以降、閩越の地と呼称されるようになる)。

その楚国も紀元前 223年、秦国により滅ぼされる。翌年早々、秦国は江東の地に 会稽郡(郡役所は 呉県城【今の蘇州市】に開設)を新設する。
さらに翌紀元前 221年、燕国と斉国を消滅させた秦国により、中原の統一が成る。秦の始皇帝はすぐに、全国に中央集権体制の導入を図り、郡県制を施行する。会稽郡下には20を超える県城が設置されたわけであるが、そのうち、今の浙江省にあたる一帯には、山陰県、諸暨県、上虞県、余姚県、句章県、鄞県、烏傷県、太末県、銭塘県、余杭県、由拳県、烏程県、海塩県などが配されていた(下地図)。

紹興市

前漢朝時代、第七代皇帝の武帝は紀元前 106年、全国に 13州刺史部を新設する。このとき、会稽郡は揚州刺史部の管轄下に置かれ、あわせて增剡県と余暨県の2県が新設されて、会稽郡下には 26県(今の浙江省エリアには 18県城)が置かれることとなった。

後漢時代の 129年、会稽郡から呉郡が分離・新設される。このとき、現在の銭塘江より南側が会稽郡の管轄域とされ、山陰県(郡役所を併設)、諸暨県、上虞県、始寧県、剡県、余姚県、大県、鄞県、句章県、章安県、永寧県、烏傷県、太末県、東冶県の 15県を統括した。

時は三国時代、会稽郡は呉領下に属し、引き続き、山陰県城が郡都とされた。
221年の時点で、会稽郡下の県城は 31にも増加していた。

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252年、孫権が病没すると、孫亮が呉第 2代目皇帝に即位する。同年、永康県、武義県、建平県の3県が新設されるとともに、上虞県が侯国へ昇格される。
257年、260年、266年と続いて、会稽郡から 臨海郡、建安郡、東陽郡の3郡が分離・新設され、会稽郡の管轄域は大幅に縮小された。以降、上虞侯国と山陰県(引き続き、郡役所を併設)、諸暨県、余姚県、永興県、始寧県、剡県、鄞県、句章県の 8県のみが管轄域となる(下地図)。

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その呉国も280年に西晋の司馬炎により滅ぼされ、すぐに西晋朝により旧呉領の行政区改編が着手される。翌 281年、驃騎将軍の孫秀が会稽郡の地に封じられ、会稽国(呉末の管轄域と同じ範囲のまま)が建国されることとなる。


南北朝時代の宋の治世下の 421年、会稽郡が再設置される(東揚州に所属、州役所も山陰県城内に併設された)。また、陳朝の治世下の 550年代後半、会稽郡下の山陰県から会稽県が分離・新設される(ただし、同じ山陰県城内に 2県役所が同時併設される形が取られた)。

南北朝時代を統一した隋朝の治世下の589年、全国的に郡制が廃止されるに及び、会稽郡は抹消され、また同時に東揚州は 呉州(呉州総管府)へ改称される(州役所は会稽県城内に開設)。あわせて、山陰県、永興県、上虞県、始寧県が合併されて、会稽県へ編入される。さらに、余姚県、鄞県も句章県へ吸収合併され、最終的には会稽県、諸暨県、剡県、句章県の 4県が呉州の管轄とされた。

隋朝第 2代目皇帝・煬帝の治世下の 605年、呉州は越州へ改称される。しかし、すぐ後の 607年、会稽郡へ再変更される。

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唐代初期の 621年、句章県下の旧鄞県域から剡城県が分離・新設され、また、句章県下の旧余姚県域が分離され姚州となる。句章県内の残りの行政区は鄞州へ改称される。同時に、会稽郡は越州へ再改名され、会稽県(624年に山陰県が分離・新設されるも、県役所は同時併設)、諸暨県、剡城県の3県と、嵊州、姚州(624年、余姚県へ降格)、鄞州、麗州、婺州の 5州(引き続き、州役所は会稽県城内に開設)を統括した(上地図)。
758年、越州都(会稽県城&山陰県城)に浙江東道節度使が併設され、越州、睦州、衢州、婺州、台州、明州、処州、温州の 8州を統括することとされる。

唐代末期の黄巣の乱の最中、平董昌が江東地方で挙兵し、杭州八都と通称された私兵団を組織する。浙江省一帯の軍閥勢力との戦闘を通じて覇権を握り、896年、越州城を東府へ改称し、これを王都とする独立国を建国するに至る。しかし、その配下であった銭鏐による下剋上により、同年中にその権力は簒奪され、最終的には銭鏐が鎮海・鎮東両軍節度使となり、後に続く五大十国時代の一雄「呉越国」の建国基盤を作りあげることとなった。

紹興市 紹興市

時は下って、北宋時代の 1074年、越州城内の浙江東道節度使が両浙東路へ改編される。
南宋時代の 1130年、高宗が越州城に滞在した折、「紹奕世之宏休、興百年之丕緒」の詔を発し、1131年正月に紹興へ変更される。同時に、越州は紹興府へ昇格となった。引き続き、紹興府の府役所は山陰県城内に開設され、山陰県、会稽県、諸暨県、萧山県、余姚県、上虞県、嵊県、新昌県の 8県を統括する。

紹興市

元代の 1276年、紹興府が紹興路へ改編されるも、その管轄区域はそのまま踏襲された。元朝末期の軍閥割拠の時代にあった 1366年、紹興府へ再改称され、以降、明代、清代もこれが継承される。
清朝晩年の 1911年、山陰県と会稽県が合併され、紹興県となる。

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なお、現在の紹興市中心部にあった 山陰県城(越国王都、会稽郡城、会稽県城、呉州城、紹興府城)跡であるが、今日でも外堀にあたる濠川や数カ所の城門がそのまま保存され観光地化されている。その城域の広大さには驚かされるばかりで、さすがは府の中心都市であり、山陰県と会稽県の両県役所が併設されてきた大城郭である。また、旧市街地内には多くの祠や廟が残されており、今に生きる市民の郷土愛に敬意を表したい。
現在の路地名や地名にもかつての城壁都市時代の記憶が数多く刻み込まれていた。環城北路、環城東路、都泗門、東街、環城南路、羅門江橋、羅門路、環城西路、府山西路、環城河、越国遺跡、府山公園、府山真街、府横街、倉橋真街、龍門橋(かつて城内には多くの小川が通り、その各所に橋があった名残)、宋梅橋、八字橋真街、広寧橋、東街、水溝営、府学通、后観巷など)


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