『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


遼寧省瀋陽市 ~ 人口 823万人、 一人当たり GDP 60,000 元


 ➠➠➠ 瀋陽市内の城跡リスト ➠➠➠  クリック

  瀋陽城(候城、瀋州城、奉天城)



【 瀋陽市の歴史 】

瀋陽市一帯では、3万年前の旧石器时代より人類の生息が確認されているという。 7200年前には、農耕漁業を営む太陽烏図騰文化が花開いたとされる。
春秋戦国時代になると、この地を支配した燕国は行政拠点を築城する。遼東郡襄平県(今の遼陽市)の管轄下として、 最初の歴史の一歩を踏み出すこととなった。
秦が紀元前221年に全国を統一後、引き続き、遼東半島一帯は遼東郡に帰属された。前漢王朝時代、この瀋陽市にあった軍事要塞は、「候城」と呼ばれるようになる。引き続き、遼東郡の管轄下に入っていた。このとき、遼東郡役所は襄平城内に設置され、襄平県、居就県、新昌県、無慮県、望平県、房県、候城県、遼隊県などの18県を管轄していた。
三国時代、公孫氏がこの地に燕王を名乗って君臨していた際、平州と改名し、遼東、玄菟、昌黎の3郡を置いていた。そのうちの玄菟郡の郡役所が、候城県に置かれ、玄菟城と呼ばれるようになる。

その後、北方民族系の五胡が占領し、最後に高句麗が遼東半島一帯を支配することになった。高句麗の治世は以後、200年にも及ぶ。
668年に唐の3度に及ぶ遠征によって高句麗が滅亡すると、候城県は瀋州へと改名される。瀋州の北側一帯には女真族、高句麗残党らによる渤海国が 建国され、長らく唐朝と朝貢関係を結んでいたが、内モンゴル高原より台頭してきた契丹族(遼王朝を建国)により 926年、滅亡させられることになる。遼国は衰退中の唐領北部を侵し、東征して遼東半島一帯を領有するまでに至る。
その途上であった921年、契丹族(遼国)はこの地に多くの移民を奨励し、土壁城壁の修繕を実施し、城郭都市としての発展の礎を築くことになった。しかし、渤海国の残党となっていた女真族により建国された金国は遼国へ侵攻し、失地回復戦を展開していく(下の地図)。このとき、金国軍は瀋州の城郭都市も陥落させている。金国の統治時代も、瀋州の名前は引き続き使われた。

瀋陽市

1296年、元王朝により、土壁城壁がさらに改修され、あわせて「瀋陽路」へと改名される。瀋水(渾河)の北側にあることから、「山の北側は陰、水の北側は陽」という漢族の風習から、瀋陽と命名されたという。遼陽行省の管轄下に入るものとされた。

明代の1386年、瀋陽路は瀋陽中衛へと改名され、あわせて、城壁も総レンガ造りへと大改修される。明王朝にとって、対北方民族の前線基地となる遼東郡の重要性は格段に高まっており、瀋陽市の拡大の大きな原動力ともなった。
時は下って明末、1616年に後金国を建国したヌルハチは、1618年より明領への侵攻作戦を展開し、サルフの戦いで明遠征軍を撃破した後、1621年、勢いに乗ったヌルハチ軍は瀋陽・遼陽を陥落させることに成功する。 1625年、ヌルハチは一時的に遷都していた遼陽城から、この瀋陽城へ再遷都し、早速、新王宮(今の瀋陽故宮)の建設を開始している。 1634年、二代目皇帝のホンタイジは瀋陽を盛京へと改名する。
1644年、ホンタイジの後を継いだフリン(順治帝)により、清王朝の国都は北京と決定されるも、引き続き、瀋陽は副王都として存続されることになった。 1657年には、「奉天承運」から命名した奉天府を瀋陽城に設置し、瀋陽城は別名、奉天とも呼ばれるようになる。そのまま近代まで続くこととなった。辛亥革命の折は、瀋陽城は東北系の奉系軍閥政府の本拠地ともなっている。
1923年、中華民国の下、正式に奉天市として行政が開始される。その後、1929年に張学良が奉天市を瀋陽市に改名するも、1931年以降の日本統治下の満州国においては再び奉天市へと戻されている。日中戦争後の中華人民共和国において、再び、瀋陽市へと改名されて今日に至る。

瀋陽市

瀋陽市

かつて、候城、瀋州城、瀋陽城、奉天城といわれた古城跡であるが、清代では副王都であっただけあって、内城、外城の遺構を今日まで生々生しく見受けられる。城壁自体は完全に撤去されているが、内城には故宮が観光地として解放されており、外城でもかつての濠川跡や道路名から、その姿を容易に想像できる街であった。


お問い合わせ


© 2004-2018  Institute of BTG   |HOME|Contact us