BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 深圳市 ~ 市内人口 1800万人、 一人当たり GDP 205,000 元(深圳市 全体)


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  南頭古城(宝安県城、東官郡城、東莞守御千戸所城、新安県城)
  大鵬古城(大鵬砲台)
  赤湾砲台
  宋少帝陵 と 陸秀夫像
  中英街(沙頭角)



【 深圳市の 歴史 】

6500年前の新石器時代、既に百越民族の一派とされる人類の生息が確認されている。

中原で 夏朝、殷(商)朝、周王朝が勃興し、大いに中華文明をはぐくんだ時代、現在の深圳市一帯では引き続き、百越民族らが割拠し、漁業と水上交易を主とする生活が営まれ、 農業活動はほとんど行われていなかったという。

深圳市

紀元前 221年、秦の始皇帝により中原の中華文明圏が統一されると、2年も経たないうちに華南地方へも遠征軍が派兵され、4年がかりで武力併合されることとなる(上地図)。
翌紀元前 214年、この華南地方一帯に南海郡、桂林郡、象郡の 3郡が新設され、 郡県制が導入される。現在の深圳市域はこのとき、 南海郡(郡行政庁は 番禺県城【現在の 広東省 広州市】)に帰属された。
以降、秦国はこの地方を漢化すべく、中原エリアから 50万人もの 漢民族を移民させることとなった。

しかし、秦王朝の治世も長くは続かず、紀元前 210年に始皇帝が死去すると、直後より漢楚戦争が勃発し、この混乱に乗じた形で華南地方に南越国が建国される(下地図)。

深圳市

その南越国も、紀元前 111年に前漢第七代皇帝の武帝により滅ぼされると、 全国 13州の一つである 交州(州都は 広信県城【現在の広西省 梧州市】)が新設され、現在の広東省、広西省、 ベトナムまで含む広大な土地が一体管理されることとなった。
現在の深圳市一帯は、引き続き、交州下の南海郡に帰属された(下地図)。

深圳市

史書によると前後漢時代、当地には塩業を監督する塩官役所が開設されていたとされ、 三国時代の孫呉の治世下では、司塩都尉が入居する簡易な城塞(垒蕪城)が設置されたという。

華北が五胡十六国の戦乱で荒廃する中、多くの人々が流民となって 華南地方へ流入した結果、華南エリアの人口が急増し、多くの 行政区(県城や郡城)が 新設されていくこととなる。

東晋時代の 331年、揭陽県(紀元前 214年の秦代より設置)から分離され、 海陽県(今の 広東省潮州市)、潮陽県、海寧県(今の 広東省揭陽市 恵来県 西部の千秋鎮村)、 緩安県(今の福建省漳州市雲霄県)など 4県が新設される。
また同時に 博羅県(紀元前 214年の秦朝より設置)も分離され、宝安県、海豊県、 安懐県(今の 広東省東莞市東部)の3県が、龍川県からも興寧県が分離・新設される。
あわせて、南海郡の東部が分離され、東官郡が新設されると、 その郡役所が 宝安県城(今の 深圳市南山区南頭古城)に開設される。 こうして、上記の合計 11県を統括する郡都・南頭城、すなわち、 現在の深圳市がスタートを切ったわけである(下地図)。

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その後、東官郡の東部が分離され、義安郡、梁化郡などが次々に新設されていき、 その管轄域は順次、縮小されていった。
これにあわせて、東官郡の郡役所が 安懐県城(今の 広東省東莞市東部)へ移転される。

南北朝時代に終止符を打ち 300年ぶりに中国全土を再統一した隋朝の治世時代の589年、 東官郡が廃止され、南海郡に吸収合併される。宝安県(今の 東莞市、珠海市、 マカオ、香港を統括)は再び、南海郡の管轄下に組み込まれることとなった。
唐代中期の 736年、屯門鎮が新設されると、鎮役所が 宝安県城(今の南頭古城)内に併設される(下地図)。

757年、宝安県が東莞県へ改称される。あわせて、東莞県の県役所が 南頭古城から 東莞城(今の 東莞市莞城区)へ移転される(下地図)。 以後、宝安鎮城となり、県域行政の統括拠点から、海上交通の要衝、かつ軍事要塞の 意味合いが強まることになった。

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時は下って、北宋朝時代、現在の深圳市エリアは広州下の 香山県(今の広東省 中山市)に帰属し、 東南アジア交易のルート上に位置することとなった。当時の深圳市はまだまだ田舎で、 海岸一帯の塩田業から生産される塩や香料、真珠などの生産品を交易都市へ 提供する後背地の一つに過ぎなかった。

深圳市 深圳市

さらに時代は過ぎて、明代初期の 1394年、広州左衛千戸の崔皓がもともとあった 宝安鎮城(南頭古城跡)を改修し、東莞守御千戸所城の築城工事を開始する。 これが、現在見られる石積み城壁の南頭古城の原型となる。
当時すでに脅威となっていた倭寇や外国船への防衛拠点造りの一環であった。 同年、現在の深圳市東部で、大鵬守御千戸所(大鵬古城)の築城建設も着工されている。
この時代、深圳市一帯は引き続き、塩田、茶、香料、米生産などが主たる産業であった。

明代も後期に入った 1573年、 東莞県の東部(7608戸の家々、男女あわせて33971人)が分離されて、 新安県(今の 深圳市と香港を統括)が新設され、県役所が 東莞守御千戸所城 (今の 南頭古城)内に開設されると、再び、県城として帰り咲くこととなった(下地図)。
なお、「新安県」の地名は、古きを改革し、新しきを創造するとともに、危機を克服し、 安寧を創造する(革故鼎新、転危為安)という願いを込めて命名されたという。

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清代初期、清朝に抵抗する鄭成功の一派に対抗すべく、南東部の沿海地域に禁海令が 発せられる。これにより、海岸線エリアの人々は老若男女を問わず強制的に内陸部へ移住させられることとなった。

深圳市域では二回、この遷界令が発動され、ともに海岸から 20 km圏が無人化される。 このとき、新安県城も廃止され、ほとんどの土地が無人空間と化したという。新安県下に残された人口は北部の山間部の 2172戸だけであったという。
あわせて、新安県城の城壁が撤去され、城内の建物類もすべて取り壊され、それらの資材を用いて、内陸部に長大な境界壁が建造されることとなる。

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1669年、広東巡撫の王来仁の再三にわたる清朝廷への上奏により、新安県が 復活設置させると(上地図)、再び県役所が今の南頭古城内に開設される。

清朝末期、アヘン戦争や アロー号事件の敗戦に 絡む清朝政府と英国との間で調印された南京条約、天津条約などにより、 1842年7月~1898年4月までの間に、英国によって香港島、九龍半島、新界が割譲、もしくは租借されることになった。もともと新安県都として南頭城が統括してきた総面積 3076 km2のうち、実に 1055.61 km2が失われたのである。 香港と深圳市との境界線はこの時から今日まで継承されている(沙頭角地区の中英街)。下地図。

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中華民国時代の 1913年、新安県が宝安県へ改称される。 日中戦争時代には、日本軍により南頭城が陥落し、 宝安県政府が臨時的に東莞県城内へ移転される。 最終的に 1949年10月に共産党政権が樹立されると、宝安県人民政府が南頭古城内に 開設され、引き続き、宝安県(後の深圳市)域の中心拠点を継承した。
1911年10月8日に開通していた広州 ー 香港九龍鉄道の通過点に位置したため、 その沿線上に人口流入が進み、いよいよ管轄区域内の東西格差が明らかとなった 1953年、 宝安県の行政庁が南頭城跡から 10 kmほど東の 深圳墟(羅湖地区東門、老街あたり)へ 移転されることとなる。

1979年3月、中央政府と広東省により宝安県は深圳市へと改名され、1980年8月26日に は全人代において深圳市内に経済特区の設置が決定される。 深圳市では、この日を市制誕生の日に指定している。
1984年2月24日~26日と 1992年の二回、鄧小平が深圳市を訪問している。 1990年12月1日、上海についで中国国内で二番目の証券取引所が開設される。


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