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河北省石家荘市 ~ 人口 1,055万人、 一人当たり GDP 48,000 元


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  真定県城(東垣県城、三国時代の猛将・趙雲の故郷、常山郡城、【2代目】恒州城、真定府城、正定府城、正定県城)
  石邑県城(石邑城、恒山郡城、常山郡城、【2代目】井陘県城、【初代】恒州城、常山郡城、恒州城、鎮州城)
  綿曼県城
  【初代】井陘県城(井州城)
  鹿泉県城(获鹿県城、鎮寧州城、西寧州城)



【 石家荘市の歴史 】

春秋時代初期には虞国の、後期には晋国の版図下に組み込まれた。
戦国時代初期には、中山国に属する。趙国が中山国を滅ぼすと、趙国の領土とされた。このころ、石家荘市一帯は石邑と通称されていた。

石家荘市

秦代には鉅鹿郡に帰属される。
前漢時代に石邑県が新設される。県城は今の石家庄市鹿泉区获鹿鎮の南15kmの地点に築城されており、恒山郡(紀元前187~前180年の間、恒山国へ昇格される)の郡都に指定される。
また、秦代に設置されていた東垣県(今の石家庄市正定県)が、紀元前196年に真定県へ改称されている(「真正安定(絶対安寧の意)」から命名)。後に恒山郡の郡役所が転入される。下地図。

前後漢時代を通じ、石家庄市の西部一帯の太行山地区は、一大兵器産地として繁栄する。製鉄業を主軸に、武具や各種鉄器などの生産地として名を馳せ、これに絡み、付近を流れる河川も冶河と命名されるほどであった(現在も使用中)。

石家荘市

紀元前179年、恒山郡が常山郡へ改名される(第5代皇帝の文帝【劉恒】の名にダブったため)。真定県城(今の石家庄市正定県中心部)がそのまま郡都とされた。上地図。
紀元前145年には常山郡が常山国へ改編され、再び封国(劉舜が国王)が復活する(紀元前114年、劉舜の死とともに廃止)。元氏県城(今の石家庄市元氏県殷村鎮故城村)が王都に選定されていた。
紀元前113年、常山郡が分割され、今の石家庄市鹿泉区获鹿県の北側に綿曼県が新設される(真定国【王都は真定県城内に開設】の版図下に組み込まれる)。
紀元前68年にも、获鹿県の北東部分に楽陽侯国が新設され(恒山郡に帰属)、4代の国王が封じられた。紀元前21年、再び楽陽侯国が復活設置されるも、前漢朝の滅亡とともに、廃止される。

後漢時代期には、一時期、石邑県が廃止されるも、後に再設置される(常山郡に所属)。後漢時代の初期には封国として設置された綿曼侯国下、続いて真定国下、そして中山国下の版図下に組み込まれるも、いずれの封国も短命であった。この間、常に常山郡石邑県として存続していくこととなる。

石家荘市

三国時代から西晋時代、南北朝時代の北魏朝の治世時代にかけては、石邑県は引き続き、常山郡の管轄下にあった。
なお、後に蜀の五虎将軍の一角を成す趙雲は、石邑県のすぐ上の常山郡真定県(現在の石家庄市正定県中心部)の出身である。この当時も、真定県城が常山郡の郡都であった。上地図。


時は下って、南北朝時代下の北斉朝の治世時代、石邑県が井陘県へ改称される。もともと存在した井陘県を吸収合併する形での変更であった(引き続き、常山郡に所属)。

また、北周朝の治世下(578年)には、定州から恒州(州都は真定県城)が分離・新設される。

石家荘市

隋初期の583年、井陘県(石邑県)の県役所が今の石家庄市鹿泉区获鹿県の北東にある万夏村へ移転される。また同時に、常山郡が廃止され、石邑県は恒州の所属とされた。上地図。
586年、井陘県が石邑県へ再び戻される。また同時に、かつての井陘県が復活設置される。

603年、石邑県が分割され、今の石家庄市鹿泉区获鹿県の中心部に鹿泉県(県城の南側十里に鹿泉水という河があり、ここから命名された)が新設される。同時に、井陘県城内に井州役所が併設され、鹿泉県を統括することとされた。

石家荘市

隋末期の混乱期にあった618年、窦建徳が農民反乱を主導し、恒州一帯を占領する(上地図)。 このとき、恒州役所が真定県城から石邑県城へ移転されている。

しかし、621年に唐軍を率いた李世民により農民反乱が平定されると、恒州役所は再び真定県城へ再移転される(石邑県は引き続き、ここに所属)。 一方、井州は引き続き、井陘県と鹿泉県を管轄した。

643年、井州が廃止され、鹿泉県は恒州の管轄区に組み込まれる。
742年、恒州が常山郡(引き続き、井陘県城が郡都)へ改編され、石邑県(今の石家庄市橋西区振頭の一帯)と鹿泉県の2県を統括した。
756年には、常山郡が平山郡へ(翌757年には恒州へ、最終的に820年に鎮州へ)、鹿泉県が获鹿県へ改名される。获鹿県と石邑県はそのまま平山郡に帰属された。

石家荘市

五代十国時代、石邑県と获鹿県の2県は、後梁朝下の鎮州に属した。上地図。
その後、度々、為政者の変遷を見ることとなる。後唐時代には真定府(後に鎮州に戻される)、後晋時代には恒州へ、北漢時代には鎮州へと行政区が改名されていくも、その管轄下には常に石邑県と获鹿県の2県が配された。

北宋時代の初期にも、石邑県(973年に获鹿県へ吸収合併される)と获鹿県は鎮州に属された。 1048年、鎮州は真定府(真定県城が府都)へ改編されるも、引き続き、获鹿県を統括した。

石家荘市

金代初期にも、真定府は获鹿県を管轄することとされるも、1219年、获鹿県が鎮寧州へ昇格される。
元代に入り、鎮寧州が西寧州へ改称され、真定路に帰属された。最終的に1235年、西寧州が获鹿県へ降格される。

明代も引き続き、获鹿県は真定府の管轄下に置かれた。

清代も明代の行政区が踏襲される。 1723年には、真定県が正定県へ、真定府が正定府へ改名されている(そのまま获鹿県を統括)。

石家荘市

20世紀初頭、現在の石家庄市中心部は未だ获鹿県下の小さな集落に過ぎなかった。

当時すでに、获鹿県城は華北地方の水運拠点の一角を成し、大いに繁栄していたが、清末に鉄道が開通することで、大きく産業と物流構造が変化し、水揚げ港も鉄道駅の傍である東側へ移転されることとなる。こうして、現在の石家庄市中心部一帯が获鹿県城の地位に取って変わり、大発展を遂げることとなった。

1902年に、フランスとベルギーが共同開発で京漢鉄道を敷設した際、市内に一つの駅が開設される。付近の振頭鎮から命名され、振頭駅と命名された。

石家荘市

正太鉄道の線路工事に際し、滹沱河の上に陸橋を敷設する手間を避けるべく、1907年、現在の石家庄市街区にて京漢鉄道と連結される。こうして、正太鉄道の終着駅が正定県城から石家庄へ変更されるに至り、石家庄は両鉄道の交錯地点として、急速に市街地開発が進むこととなった。

中華民国が建国された翌1913年、范陽道(翌1914年には保定道へ改称)が新設され、获鹿県を統括した。
1928年には全国で道制が廃止され、获鹿県は河北省の直轄下に組み込まれる。

1937年10月10日、日本軍により占領され、河北省石門市へ改称されている。


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