BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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吉林省 四平市 ~ 人口 220万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  梨樹鎮城
  葉赫那拉古城
  偏臉城跡
  城子村古城
  大営城子古城
  宋家洼子古城
  前大屯古城
  前城子古城
  城合店古城
  二龍湖古城(春秋戦国時代の燕国の最前線基地跡)



【 四平市の 歴史 】

3000年前には、すでに古代人類の生息が確認されている。

中原が春秋戦国時代(紀元前 770~前 221年)にあった頃、燕国の支配下に組み込まれていた。燕国は二龍湖古城(今の四平市梨樹県石嶺郷二龍山村の北 1.5 kmにある崴子屯に現存。下地図)と、真番障塞(朝鮮族や真番族の侵入を防ぐための長城)を築城し、最北端の前線拠点としていた。その上で、遼東郡にも吉林燕長城を建造することとなる。
この頃から、漢民族の入植が進んだと考えられている。

四平市

紀元前 221年、秦王朝が燕国などを滅ぼし、中原を統一すると、今の四平市一帯を含む、遼東郡以北のテリトリーは放棄される。
その後、始皇帝が死去して中原が混乱すると、項羽と劉邦を筆頭に群雄が割拠する大混乱時代を迎える。そのどさくさの中、旧燕国の亡命者だった 衛満(生没年不詳)が、朝鮮半島を中心とする衛氏朝鮮を建国すると(紀元前 195年。下地図)、今の四平市一帯はその勢力圏に組み込まれる。しかし、紀元前 108年、前漢朝第 7代目皇帝・武帝により衛氏朝鮮が滅ぼされると、漢王朝下の玄菟郡に統括された。
四平市

後漢末~三国時代、公孫度(150~204年)、公孫康(生没年不詳)、公孫恭(生没年不詳)、公孫淵(?~238年)の支配下で、 遼東郡に組み込まれるも、魏王朝との対立が決定的となると、238年、魏の司馬懿が 自ら討伐軍を率いて北進してくる。戦闘らしい戦闘もなく、公孫軍は瓦解し、一族は処刑され滅亡に追い込まれることとなった。

この直前、今の 吉林市長春市農安県 一帯の山岳地帯を地盤に扶余族が台頭してくると、扶余国を建国し、魏王朝に朝貢していた。魏王朝から西晋王朝へ政権が移行しても、 引き続き、西晋朝に帰順することとなる。その西晋朝も弱体化し、華北地方で 五胡十六国時代がスタートすると、扶余国も勢力を拡張し、今の四平市一帯をも その支配下に組み込むこととなった。

その後、遼東半島南部で高句麗が台頭してくると、494年、扶余国も滅亡に追い込まれ、高句麗のテリトリー下に置かれる(下地図)。

四平市

その高句麗も、668年に唐王朝の攻撃を受け滅亡すると、中国東北部は安東都護府の管轄区域として直轄支配を受けるも、再び、地元部族が力を盛り返し、渤海国を建国する。渤海国はすぐに唐王朝に帰順し、その柵封体制に組み込まれる。この時代、今の四平市一帯は、渤海国下の扶余府扶州に統括された。

926年、遼王朝が渤海国を滅ぼすと、その支配下で東京道通州に管轄される。続いて 1125年、金王朝が遼王朝を滅ぼすと、咸平路下の 韓州(今の吉林省長春市農安県)に属した。その金王朝も 1234年、モンゴル軍により滅ぼされると、元王朝下の開元路に統括される(下地図)。
この時代、中国東北部には駅伝ネットワークが整備され、現在の四平市梨樹鎮の中心部に、その駅伝拠点の一つ「売買駅」が開設されていた(下地図)

明代には、遼東都司の北端に位置することとなる。

四平市

清代の初期、内蒙古哲里木盟に属し、間もなく昌図庁の行政区に組み込まれる。
1821年、昌図庁が 売買街(今の四平市梨樹鎮の中心部。上地図)に 梨樹城分防照磨(役所の地方出先機関)を設置すると、今の四平市一帯を管轄させる。
1878年、奉化県(今の 四平市梨樹鎮の中心部)が新設され、その配下に九社が設置される。その中の一つ、新恩社(その役所は今の 昌図県老四平に開設)が、今の四平市域の大部分を統括した。

1905年9月、日露戦争が終結し、日本がロシアから南満州鉄道の利権を譲り受け、ロシアが租借していた線路用地や周辺の土地を、そのまま日本の満鉄が租借することとなる。その沿線上の土地は租借地の附属地として、 日本人が政治、経済、都市建設、土地&不動産管理、教育&保健衛生、 徴税などの事務管理権を掌握すると、この時代、現在の四平市はこの日本軍統括地と清朝統括地が混在する複雑な二元管理地帯となっていた(清朝が滅亡すると、そのまま中華民国政府が踏襲する)。

中華民国時代の 1916年、四平街(現在の市中心部)に満州鉄道の北駅が開設されると、人口と経済が急成長し、1922年、そのまま四平街村へ改編される(下地図)。

四平市

満州事変の翌 1932年、満州国が成立すると、日本の関東軍が中国東北部を支配する。
1937年12月1日、四平街村を中心とする四平街市が新設されると、日本人の 古館尚也(南満州鉄道会社の元社員)が初代・四平街市長に任命される。こうして、それまでの 梨樹県 の管轄下から脱し、四平市は奉天省に直轄されることとなる。
1941年7月1日、満洲国が東北地方を 19省に分割すると、奉天省の一部が分離され、四平省が新設される。省政府はもともとの 四洮鉄路事務所(今の 四平市愛齢奇医院内)に開設され、現在の 四平市、公主嶺市、通陽県、梨樹県、双遼県、東豊県、懐徳県、長嶺県などを統括することとされた。

第二次大戦後の 1945年、四平省が廃止されると、11月5日、遼北省に組み込まれる。この時代、遼北省は、遼源(遼源県、双遼県、長嶺県など)、西安、懐徳(懐徳、梨樹県 など)の 3行政区、そして、四平市とその配下の 13県を統括していた。
国民党勢力の撤退後、遼北省は廃止され、共産党政権により遼西省へ改名される。そして、最終的に 1954年、吉林省に属することとなった。


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