BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 綏化市 ~ 人口 376万人、 一人当たり GDP 34,000 元


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  北団林子鎮城(綏化理事通判庁城【綏化庁城】、綏化府城)
  安達撫民府城(安達人民鎮、安達県城)
  八里城跡(肇州城、始興県城、肇州屯田万戸府城、ゴルロス【郭爾羅斯】后旗)
  扎薩克府(旗公府)
  四方台遺跡(金兀術点将台。元代の駅伝拠点。綏化市四方台鎮友誼村の南 500 m)



【 綏化市の 歴史 】

約 1万年前の旧石器時代、すでに古代人類の生息があったことが確認されている。
5000~3000年前、東北地方全域にわたって粛慎族のテリトリー下にあり、中原王朝へ朝貢が行われていた記録が残されている。

3000~2200年前も引き続き、粛慎族の勢力圏下にあったが、その西端や南端の一部では、中原の進んだ文明に接した部族らが農業生産に従事するようになり、新種族として「濊貊族」と呼称され、粛慎族から分派されていく。下系図。
2200~1500年前には、濊貊族の末裔である夫余族が建国した夫余国に、 1500~1400年前には、夫余族の一派が建国した寇漫汗国(寇莫汗国)と豆莫類国のテリトリーに組み込まれていた。

綏化市

1300年前には黒水靺鞨七部の一つ「黒水部」の、1200年前には靺鞨族の一派「安東骨部」の支配地となっていた。
長らく東北地方の南半分を支配した高句麗(紀元前 37~668年)を滅ぼした唐王朝は、東北地方全域を支配下に置くと、渤海都督府と黒水都督府に分けて統括させる(下地図)。その後、高句麗遺民と靺鞨族らが手を組んで渤海国が建国されると、両都督府を排除して、東北地方を軍事支配する(その後、唐王朝と関係修復し、その支配を公認されることとなった)。

綏化市

926年、西域で台頭した契丹族が渤海国を亡ぼし、東北地方を併合すると、遼王朝を建国する。以降、その治世下で東京道に統括される(道役所は、遼陽府城【今の遼寧省遼陽市】が兼務した)。

150年後の 1114年秋、遼王朝による圧政に耐えかねた東北地方の諸部族らは、女真族の部族長の一人だった完顔アグダ(1068~1123年)の挙兵に合流すると、翌 1115年1月、金王朝を建国させる。以降、遼王朝を圧倒し、10年後の 1125年に滅亡へと追い込むことに成功する。

この金王朝の治世下の 1130年、始興県城が築城され(今の綏化市肇東市四駅鎮の南西 3 kmの地点にある八里城遺跡)、肇州の州都を兼務することとなる
以降、現在の綏化市エリアは、上京路会寧府 下の 曲江県(今の ハルビン市賓県新甸鎮仁和村に残る、仁合古城)と、宜春県(今の ハルビン市双城区永勝郷古城村に残る、永勝古城)、肇州下の 始興県(今の 綏化市肇東市四駅鎮に残る、八里城跡) に分かれて統括された。下地図。

綏化市

その金王朝も、西域で台頭したモンゴル帝国によって滅ぼされると(1234年)、チンギス・カン(1162~1227年)は、自身の一族に東北地方の土地を分割&下賜することとなった。その中でも、次弟ジョチ・カサル(1164?~1213年?)と、末弟のテムゲ・オッチギン(?~1246年)へ分封された土地が最大で、両名の死後も、その子孫へと継承されることとなる。

それらの封地も含め、元王朝時代、東北地方一帯は遼陽行省下の開元路(路役所は 黄龍府城【今の 吉林省長春市農安県】に開設)に統括される。なお、金王朝末期にモンゴル軍による蹂躙を受けた東北地方全域は荒廃しており、人口も激減していたため、金王朝時代の府、県、州制はすべて廃止されていた。空白地帯となった東北地方には多くのモンゴル系民族が流入して放牧生活を営むようになり、残存していた女真族と並ぶ一大部族勢力となっていくわけである。

こうして域内の住民人口が回復してくると、1295年、肇州屯田万戸府が新設される。その府役所は、旧・肇州城(今の 綏化市肇東市四駅鎮に残る八里城跡)に開設された

綏化市

明代に入ると、肇州屯田万戸府が廃止され、奴児干都司下の塔山衛に統括される(上地図)。 1425年以降は、郭爾羅斯部のテリトリーに組み込まれる。この時代、八里城跡には、東北地方一帯に構築された駅伝ネットワーク上の駅伝拠点「肇州駅」が開設されていた。上地図。

清代に入り、黒竜江将軍が新設されると、東北地方北部を統括する(将軍衛門役所は当初、旧璦琿城 に開設。続いて 新璦琿城 へ、最終的に チチハル市 へ移転)。下地図。

綏化市

この時代、東北地方は女真族(満州族)発祥の地「龍興の地」として神聖化され、封禁政策(漢民族や朝鮮族、モンゴル族などの新たな流入が禁止された)が採用される。このため、ほとんどの土地は遊牧民族の放牧地として放置され、また一部は「皇室囲場」として長大な土壁で取り囲み、皇族専用の狩場として保護され、広大な未開の土地が残されることとなった。こうして、東北地方では未開の原生林がそのまま残り、人口密度の低い、だだっ広い土地だけが 200年近くも続くのだった。

しかし、東北地方の北部ではロシア帝国が勃興し、ロシア人探検家や商人、住民らの入植が急速に進められていく。その最前線に位置した黒竜江将軍(本部は、今の チチハル市 に開設)は、清ロ間で国境を定めたネルチンスク条約(1689年締結)も形骸化し、領土が次々に浸食されている危機的状況に直面する中、このロシア人の侵入と実行支配を防止すべく、朝廷へ新移民の導入と屯田政策を上奏するようになる。以降、東北地方は徐々に住民人口を増やし、食料供給と経済活動を活性化させていくも、そのスピードよりもロシア側の方が圧倒的に速く、1858年、ついにロシアからの圧力を受け不平等なアイグン条約(璦琿条約)を締結してしまい、清朝はアムール川(黒竜江)北岸の全域を喪失してしまうのだった(下地図の赤色テリトリー)。ロシア側はさらに南下を進め、清側のさらなる領土割譲を虎視眈々と狙っていく。
綏化市

こうした大ピンチの中、1859年8月、特普欽(1801~1887年。 盛京ー今の遼寧省瀋陽市 出身)が黒竜江将軍に着任すると、すぐに現地調査に着手し、翌 1860年、さらなる移民奨励と土地開発の推進、という封禁政策の全廃に関する上奏を朝廷に行う。
同年 9月6日、朝廷での審議の後、蒙古山(今の 黒竜江省ハルビン市 木蘭県)地区の開放を皮切りに、新移民の導入が加速されることとなる。

これと同時期、欧米列強との間で北京条約が締結されると、清側はさらに多くの領有権を放棄させられ、先のアイグン条約とあわせて、アムール河以北、烏蘇里江以東の 100 km2以上もの領地を喪失してしまうのだった(上地図のオレンジ色テリトリー)

アムール川(黒竜江)南岸の領土死守が急務となる中、黒竜江将軍・特普欽(1801~1887年)は 2つの重要政策を断行する。すなわち、地元の鄂倫春族らを民兵として江右団練に組み込み、領土防衛に協力させるとともに、地元の情報ネットワークを駆使して、ロシア人の動向を逐一、偵察させることとした。また、黒竜江城(今の 黒竜江省黒河市 璦琿区璦琿鎮)にも 500の官兵を増員し、緊急事態に備えさせる。同時に、不足する兵糧や武器調達にも奔走するのだった。
こうして新移民の流入により、アムール川(黒竜江)沿岸の経済状況は大幅に改善され、ロシア勢力のアムール川南岸への侵入を抑止する効果がようやく現れてくるわけである。

綏化市

清代を通じ、現在の綏化市域には、3つの屯田集落(林子)が形成されており、それぞれ泥河を境界線としていた。泥河の南岸には南団林子が、北岸には腰団林子が、さらに最北端には北団林子が立地したわけだが、1862年、この北団林子の集落地が北団林子鎮へ改編され、初めて行政庁が開設される(呼蘭庁 に帰属。下地図)。そして 1885年11月20日、この地方役所が綏化理事通判庁へ改編されるわけである。

なお、この「綏化」の地名であるが、「綏」は「平和、安らぎ、安撫」を意する単語で、「化」という意図的変化を意味する語尾が付加されて、「平和化、治安促進化」という意味の造語として誕生された、と考えられている。

1905年1月29日、綏化理事通判庁(綏化庁)が綏化府へ昇格される(下地図)。
1907年、中国東北部を統括した「将軍制」が廃止され、奉天省、吉林省、黒竜江省の三省体制へ改編される。これ以降、綏化府は黒竜江省に帰属する。下地図。

綏化市

中華民国が建国された直後の 1913年、全国で府州制が廃止され、省、道、県の三段階制に改められると、綏化府は綏化県へ改編される(黒竜江省に直轄)。

共産党時代も、引き続き、黒竜江省に帰属し、 1956年1月3日に綏化専区が新設される。また同年 4月11日には郭爾羅斯后旗が肇源県へ改称される。しかし、1958年8月16日に綏化専区が廃止され、松花江専区となると、 ハルビン市 に編入される。1965年6月に松花江専区が綏化専区へ、1982年12月には綏化市へ改編される。
1986年9月、肇東県が肇東市へ改編され、1992年12月には肇州県と肇源県の 2県により、大慶市が新設される。 1999年には ハルビン市 から綏化市が分離・独立すると、現在の市域が完成されることとなった。

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