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四川省遂寧市 ~ 人口 327万人、 一人当たり GDP 18,000 元


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  遂寧県城(広漢県城、方義県城、小溪県城、遂州城、遂寧州城)



【 遂寧市の歴史 】

春秋戦国時代下の紀元前316年、秦の恵文王は大軍を派遣し、巴国と蜀国の武力平定を進め、その旧領に巴郡と蜀郡を設置する。現在の遂寧市一帯は蜀郡(郡役所は成都城に開設)の管轄下に含まれた。
紀元前221年には秦の始皇帝により中原が統一されるも、すぐに秦朝は滅亡し、楚漢戦争が勃発する。項羽を倒した劉邦により、紀元前202年、前漢王朝が建国される。その翌年の紀元前201年、秦代に設置されていた巴郡と蜀郡から一部が分割され、広漢郡が新設される。その郡役所は当初、広漢県城内に開設されるも、後に梓潼県城、そして雒県城(今の広漢市)へと移転されていく。今の遂寧市一帯はこの広漢郡に属した。
後漢朝の時代、広漢県の南部が分離され、徳陽県(今の龍風鎮)が新設される。

劉備入蜀前の劉璋時代、黄権が広漢郡の一地方都市「広漢県」の県令となっている。当時の県役所は、現在の遂寧市旧市街地の北東部分にあった(今の塩市街あたり:北宋時代の城郭拡張工事の際、この一帯で広漢侯印が発見されている)。

遂寧市

劉備の蜀建国の時代、広漢郡から東広漢郡が分離・新設される。その郡役所は当初、広漢県城内に設置される(後に雒県城へ移転される)。東広漢郡の初代太守には、劉備の荊州新野時代からの忠臣「鄧芝」が任命された。彼は、後に劉備死後の呉との関係修復の際、その代表使者として呉へ赴き、呉の孫権からその弁舌を称賛された人物である。
234年の孔明死後、「鄧芝」は呉の備えとして、江州(現在の重慶)守備を担当。この時代、呉の孫権から幾度も密使を受け、軍門に下るように勧誘されていたようである。243年に、江州東部の「涪陵」での反乱を平定。彼の死後(251年)、息子の「鄧良」が爵位を継ぐ。基本は中央政界に在籍した。この「鄧良」だが、魏軍の蜀侵攻の際、譙周が劉禅に降伏を勧告し、その降伏書状を鄧艾に手渡すべく、譙周と張紹とともに3人で雒城(鄧艾はここで成都城の攻撃準備を進めていた)に赴く大役を司った人物である。これを手渡された鄧艾は大いに喜んだということで、この3人に手厚い接待を施した、という逸話が残る。
蜀滅亡後の翌264年に、司馬炎が魏帝から政権を譲渡され、西晋朝を建国する。「鄧良」は他州にある郡太守職を拝命し赴任するも、老母を蜀の地に残していることもあり、間もなく辞職し、蜀へ帰国する。しかし、司馬炎は彼を高く評価しており、父と同じ広漢郡太守として蜀に残らせることにした、という。
西晋の時代、東広漢郡は廃止され、広漢郡に吸収合併される。その郡都は、雒県城。


そして、西晋王朝も初代皇帝の司馬炎の死にともない、中原を中心に八王の乱が勃発し、地方への統制力が弱体化すると、旧綿竹城にあった李特が西晋朝に反旗を翻し、広漢県城を攻撃する。このとき、西晋朝側は広漢郡の郡役所を徳陽県城へ移転する。しかし、徳陽県城も間もなく李特の率いる軍により攻略されてしまう。後に李特は広漢都全土を平定すると、広漢都(郡役所は雒県城内に開設)を分割して徳陽郡を新設し、徳陽県城内に郡役所を開設させた。 以後も、李特は四川省一帯で統一戦争を続け、最終的に成漢国を建国するに至る(304年)。

遂寧市

しかし、その成漢国も、347年2月、東晋朝により派遣された桓温率いる討伐軍により平定される。その戦闘途上にこの徳陽郡を通過する際、桓温はこの地を愛でて「遂寧」と命名したことから、後に遂寧郡と改名されることとなる。
しかし、間もなく東晋朝も滅亡し、南北朝時代に突入する。ちょうど、南朝の南宋宰相・劉宋により、遂寧郡は東遂寧郡へ改名される。また、郡都もより北側の巴興県(今の回馬鎮)へ移転される。また、別に西遂寧郡も設置され、その郡役所は、旧広漢郡の郡都「雒県城」内に開設された。

南朝の梁朝の治世下、東遂寧郡の郡役所が広漢県城(小漢県城)へ移転される。また、西魏朝の時代には、広漢県は方義県へと改称され、北周朝の時代には徳陽県が廃止されている。
北周朝の時代、方義県は遂州へと改名されるに至る。

そして、南北朝時代を統一した隋朝の時代、遂州総管府が設置され、遂州、梓州、資州、普州の4州を統括することとされる。
唐代には遂州都督府へと改名され、同じく、遂州、合州、普州、果州の4州を管轄した。唐朝末期から五代十国時代にかけては、武信軍節度使が設置され、遂州、昌州、合州、渝州、泸州の5州を監督した。

宋代には方義県が小溪県へ、遂州が梓州路轉運司(省政府)へと改称される。なお、北宋第8代皇帝の徽宗の治世下、この地に極秘の離宮が建設されたことから、後に遂寧都督府へ昇格されることとなる。
モンゴル軍の四川攻撃の折、遂寧城も攻略され、元朝の時代には、都督府から州へと降格されている。
明代に入り、小溪県が遂寧州へ改称されるも、すぐに遂寧県へと変更・降格される。以後、清代を通じても県城レベルの行政区として継承されていくこととなった。


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