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湖北省随州市 ~ 人口 220万人、 一人当たり GDP 23,000 元


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  随県城(随州城)



【 随州市の歴史 】

紀元前11世紀初頭に、西周の武王により、同姓の40名の皇族らが諸侯として各地に領土を分与される。このとき、随州一帯は漢東大国の領土下に置かれた。

随州市

紀元前706年、楚国の君主であった熊通が随国に軍事的圧力をかけ、周王室に国王の称号を拝受できるように働きかけさせるも、周王室に拒絶されてしまう。

紀元前704年、楚国君主であった熊通が周囲の諸侯と協定を結び、国王へ即位しようと動くも、随国と黄国がこれに反対したため、熊通はついに随国討伐の兵を起こし、随国の君主を捕虜として、強引に随国と同盟を結んでしまう。このとき、はじめて熊通は楚国の国王として武王を称した。

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紀元前701年、楚国の武王はさらに珍国と貳国とも同盟関係を強引に締結することとなり、周囲の随国と鄖国、絞国、州国、蓼国が連合して、反楚の挙兵を決起するも楚軍に大敗を喫する。

紀元前690年、随国は周王室に楚の君主が国王を自称している旨を密告する。これに激怒した楚国は兵を起こして随国を侵攻するも、武王はその陣中で没する。間もなく、随国との同盟関係が修復された。

紀元前672年、楚国の君主である庄敖がその弟の熊惲の殺害を図る。しかし、熊惲は随国へ逃亡し、随国の兵力を使って兄の庄敖を滅ぼし、楚国君主に即位する(楚の成王)。

紀元前640年、随国は漢水より東側の諸侯を率いて、反楚の連合軍を結成する。楚国は随国を先制攻撃し、随国と楚国との間に講和が成立する。

紀元前525年、随国の援軍を得た楚国は長岸にて呉軍を撃破する。
紀元前506年には、呉国が楚国の王都であった郢を占領し、楚国の昭王は随国へ逃走することとなる。
戦国時代末期には、楚国が随国を攻め滅ぼし、その旧王都を県城として、随県を新設する。

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紀元前223年、秦国が楚国を滅ぼし、秦国の支配下で、随県は南陽郡の帰属とされる。

前漢朝時代もこのままの行政区が踏襲された。

前漢朝から権力の禅譲を受けた新朝の治世下の17年、荊州一帯では飢饉が多発し、農民らは生活に窮するようになる。このとき、新市(今の湖北省京山県)出身の王匡、王鳳が農民らを率いて反乱を起こし、これに南陽出身の馬武と潁川出身の王常、成丹らの浪人が加勢して、反乱勢力が急拡大されるに至る。数か月の間に、7000~8000の規模にまで増加し、緑林山(今の随州市大洪山)を拠点に立てこもったので、緑林軍と通称された。
21年には、新朝廷が鎮圧軍を派兵するも、緑林軍はこれを大破し、その名声は全国に鳴り響き、多くの勢力が傘下に結集するようになる。

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しかし、翌22年には数万に膨れ上がった人口過密が災いし、緑林山の拠点で疫病が蔓延する。緑林軍は部隊を分けて、各地へ勢力を分散するようになる。王常、成丹は一部を引き連れて南へ移動し、下江兵(下江軍)と称した。また王匡、王鳳、馬武らは北へ移動して新市兵と通称される。この新市兵が南陽郡下の随県城などへ攻撃を加えた。
同時に、南陽郡下の平林県(今の随州市古城畈)一帯に勢力を張っていた別の反乱軍を率いた陳牧と廖湛の平林軍(平林兵とも言う)が、この新市軍と合流することとなり、新市軍はますます強勢となる。これと連合したのが、劉縯、劉秀(後の後漢初代皇帝)兄弟の軍閥勢力であった。
後に、この新市軍と下江軍は再び再結集し、そして23年に新王朝を滅ぼし、翌24年に更始帝が即位するに至る。最終的に25年、対立関係となっていた更始帝を排除した劉秀により、後漢王朝が建国される。

この後漢時代期、天文学者・発明家である張衡(78~139年)が、随県城の東の郊外で私学校を設立している。

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三国時代は魏領の荊州南陽郡に属した。三国を統一し西晋朝を建国した司馬炎は282年、司馬邁を随郡王に封じ、随国を建国させている。

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303年には、魏陽(今の随州市の北部)出身の張昌が飢餓に苦しむ民衆を率いて反乱軍を組織し、随国城の西部で靳満の率いる西晋朝の朝廷軍を撃破し、江夏一帯を占領する。劉泥(丘沈)を擁立して漢王朝の復活を唱え、神風という元号を定めるに至る(相国と通称される)。
その後、兵を分けて武昌郡をも制圧し、その太守を処刑する。そして、さらに宛城へと進軍し、西晋平南将軍の羊伊を斬殺する。そのまま襄陽城を占領し、西晋の新野王である司馬歆を排除して、江州と長沙郡、湘档郡、零陵郡などを併合してしまう。

西晋朝の恵帝昭は寧朔を南蛮校尉に任じ、劉弘の率いる陶侃などを鎮圧させる。反乱軍は連敗を重ねるようになり、翌304年には張昌はとらえられ、処刑されるに至る。

南北朝時代の西魏の治世下の535年、随県は随州へ昇格され、配下の郡城と県城を統括することとされる。

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隋代初期の581年、随州は隋州へ改称され、漢東郡の管轄下とされる(上地図)。 583年から607年の間、漢東郡は一時廃止されるも、隋州は引き続き、隋県と厥西県を統括することとされる。

唐代の785年、淮西節度使、南平郡王の李希烈が開封を占領し、皇帝を称し、国号を楚と定める。その部下であった李恵登が隋州の守備に任ぜられた。
翌786年、唐朝廷は安州刺史の伊慎を派遣し、隋州を攻撃させると、李恵登はすぐに降伏する。こうして、再び隋州一帯は唐朝の領土下に戻された。

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しかし、唐末期の877年8月、王仙芝(もしくは黄巣)が農民軍を指揮し、隋州を占領する。唐朝廷より赴任されていた隋州刺史の崔休徵と、唐山南東道節度使の李福の子が軍を率い、隋州の救出を図るも戦死する。この後、間もなく反乱軍は隋州城から撤退し、江南を経て江東地区へ拠点を移動させることとなる。上地図。

唐の晩年期、今の随州市一帯は、唐の忠義軍節度使の趙匡の勢力下に置かれ、随唐江南諸道行営都統の楊行密と唐宣武軍、宣義軍、天平軍節度使の朱全忠が反目し合い、抗争を拡大させていた。898年7月、朱全忠が忠義軍を攻撃し、唐州、下襄州を奪取し、隋州までも攻略して、最終的に隋州刺史の趙匡を掃討することに成功する。

時は下って、北宋時代の1127年7月、史斌が農民軍を率いて反宋の反乱を起こし(後に自ら皇帝を自称)、翌1128年4月には配下の孫琦により随州城を攻略させている。しかし官軍の追討を受け、反乱は鎮圧される。

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1134年、金が南下して鄧州、襄州、随州一帯を奪取するも、同年、南宋の岳飛が金軍を撃破して、随州の奪還に成功する。しかし、翌1135年、再び金により随州城は再占領されてしまう。モンゴル軍と手を結んだ南宋は金への攻撃をしかけ、1217年4月に宋将軍の劉世興が随州で金軍を撃破することに成功する。しばらくの間、南宋の領土に復帰するも、 1230年、1235年、1252年、とモンゴル軍の攻撃を受け、1236年の一時期のみモンゴル軍に占領されるも、すぐに奪還に成功し、基本的に南宋の領土下に置かれていた。
下地図は、1140年代の南宋軍による金領への侵攻ルート。

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最終的に1275年5月、随州長官の傅安国がモンゴル軍に降伏する。しかし、南宋朝廷は朱端履を新たに随州長官に任命し、州役所をモンゴル軍が占領する州城内から大洪山黄仙洞へ移転、再開させる。同年12月、モンゴル軍が大洪山を攻撃し、朱端履も降伏するに至り、モンゴル軍は朱端履をそのまま随州長官に留め置き、黄仙洞に州役所を置いたまま、随県と応山県を統括させることとした。

明代初期の1368年7月、朱元璋の配下の武将であった鄧愈が随州城を攻撃し、占領に成功する。 9月、鄧愈はそのまま兵を大洪山へ進め、南宋末期から続いた随州役所の入居する馬劉寨をも攻略してしまう。

明代の1512年、劉六(劉龐)と劉七(寰)が反乱軍を率いて随州を攻撃する。

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明末期の1635~1643年にかけて、農民反乱軍の張献忠や羅汝才、李自成の率いる本隊などがこの随州城を巡って、度々、明朝廷軍と激戦を繰り広げている。占領に成功したり、追討軍に奪取されたりを繰り返す中で、最終的に反乱軍は随州城を放棄し、さらに南へと撤退していくこととなった。上地図。

特に、1643年、10万を数える明軍が朝廷より派遣され、随州城の奪還戦に臨んだ戦いでは、折からの大雨に遭遇し、武器や火薬などが使用不能となる中で、随州の小壩山にて反乱軍に四方を包囲されて、朝廷軍は壊滅的打撃を受けるに及ぶ。その後も散発的な戦いが繰り返され、最終的には反乱軍は全勢力をまとめて随州城から撤退することとなる。

時は下って、清代中期の1796年、襄陽白蓮教の教団トップであった王聡儿(女)が反乱軍を率いて決起する。同年2月、反乱軍は棗陽から随州の西部へ進軍し、翌年2月には随州の北部へ戦線を拡大し、3月28日に清の朝廷軍との戦闘に敗れて、反乱軍は離散することとなる。

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また、清朝後期の1854年3月18日、太平天国軍が江東地区から勢力を拡大する中で、随州まで占領している。しかし、戦線が伸び切った太平天国軍はこれを維持できず、また清軍の攻撃もあり、随州城を放棄する。上地図。最終的には1867年に完全平定されるまで、戦乱の火はくすぶり続け、その間、何度も随州城や近郊の諸県城は攻防の兵火に巻き込まれた。

1886年に初めて当地にもイギリス人宣教師が来訪し、西洋医学が初めて当地にもたらされる。


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