BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 蘇州市 ~ 人口 1,070万人、 一人当たり GDP 150,000 元


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  蘇州城(呉城、闔閭城、呉県城、会稽郡城、中呉府城、平江府城、蘇州府城)
  類県城(昆山県城)
  海虞県城(海虞郷城、常熟県城)
  呉江県城
  太倉州城(鎮洋県城)
  南沙県城



【 蘇州市の 歴史 】

蘇州市一帯では、古代人の遺跡が数多く発掘されている。
特に、新石器時代後期のものが多いという(趙陵山遺跡、少卿山遺跡、綽墩遺跡、草鞋山遺跡、羅墩遺跡など)。

殷王朝の末期、周国の太王の長子である泰伯が、その王位継承権を実弟の季歴や仲雍に譲り、 自身は長江を渡河して江南地方へ出奔してしまう。最終的に梅里の 地(今の 江蘇省無錫市梅村) に定住地を定め、原住民らをまとめて勾呉国を建国するに至る。以後、梅里は 長らく(勾)呉国の王都となる。
その版図下に現在の蘇州市一帯も組み込まれ、史上初の「呉」の文字を 冠した国家が登場することとなったのだった。

蘇州市

紀元前 11世紀中ば、西周王朝が殷朝を滅ぼすと、各地に皇族や功臣らが派遣され、分封制による全国統治体制がスタートする。上地図。
このとき、周朝初代君主の武王は、子のなかった泰伯の呉地方の統治を継承させるべく、泰伯の実弟であった仲雍の五世子孫である周章を、呉王に封じている。
こうして引き続き、(勾)呉国は諸侯に名を連ねることとなった。上地図。

紀元前 585年、寿夢(紀元前 620年~前 561年)が呉王を継承する頃には、他の大国とも肩を並べるほどに国力も充実し、初めて呉王を称するようになる。
紀元前 560年、その子の諸樊(?~紀元前 548年)が呉王を継承すると、王都が梅里(今の江蘇省無錫市梅村)から、呉城(今の 蘇州市中心部)へ遷都される。下地図。
紀元前 514年、闔閭が国王に即位すると、軍事大臣の伍子胥に呉城の拡張工事を命じる。このとき、全長約 23.9 kmにもなる大城壁が完成する(闔閭城と通称される)。

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紀元前 473年に越国が呉国を滅ぼすと、旧呉領はすべて越国に併合されてしまう。
しかし紀元前 334年に、楚国が越国を滅ぼすと、最終的にすべて楚領に組み込まれることとなった。
紀元前 262年、考烈王(完)を楚王に即位させ、その功績により宰相に就任した 黄歇(春申君)が江東地方に封地が与えられると、呉城(今の 蘇州市中心部)をその本拠地とした。

戦国時代末期の紀元前 223年、秦の将軍である王翦が楚の 王都・寿春県城を攻略して国王の負芻を捕獲すると、 長江より北側の楚領はすべて秦国に占領され、ここに楚郡が新設される。
翌年、王翦はさらに楚国の長江の南岸エリアへも侵攻を開始し、最終的に呉城も落とし(下地図)、楚を完全滅亡に追い込むことに成功する。秦国は、すぐに長江以南に 九江郡、障郡、会稽郡の三郡を設置し、直接統治体制をスタートさせる。

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最終的に 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、正式に全国規模で郡県制が施行され、呉の地は会稽郡に帰属され、郡役所が 呉城跡(今の 蘇州市中心部)内に設置される。 配下には 26県を統括した。同時に、呉城は呉県城へ改編される。

紀元前 209年、項梁と項羽らがこの呉県城で反秦のため挙兵する。下地図。
こうして、最終的に秦朝を滅亡に追い込んだ項羽は西楚霸王として独立し(紀元前 206年)、楚郡、会稽郡などの九郡を領有することとなる。

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しかし、その項羽も紀元前 202年に劉邦により攻め滅ぼされると、劉邦配下の 将軍・灌嬰が残党勢力を駆逐すべく、長江を渡河し、呉県城(会稽郡城)を占領して楚漢戦争は完全終結を見ることとなった。
同年、劉邦は韓信を山東王から楚王へ移封し、その広大な領土を与える。
しかし、翌年に劉邦は韓信を淮陰候へ降格させると、その封地であった東部の会稽郡など 3郡52県城を分離して、荊国を新設し、劉邦の兄である劉賈を荊王に封じる。劉賈はこの 会稽郡城(呉県城)をその王都として継承した。
紀元前 196年に英布が反劉邦で挙兵すると、劉賈は攻め込まれて敗死する。そのまま英布は荊国を併合してしまう。
その翌年に英布の乱を平定した前漢朝は、荊国自体を廃止し会稽郡として、前漢朝の直轄地に組み込む。

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同年、劉邦は実兄の劉喜の長子である劉濞を呉王に封じ、会稽郡城(呉県城)はそのまま呉国の王都とされた。上地図。
第5代皇帝の文帝時代の紀元前 171年、故鄣郡が廃止され会稽郡に吸収合併される。
このとき、一時的に郡役所が呉県から 故鄣県(今の 浙江省安吉県と長興県の間)へ移転されるも、 7年後に再び呉県城内へ戻されている。

紀元前 154年、呉王に封じられていた劉濞が呉楚七国の乱で挙兵するも、わずか 3ヵ月で平定されると(上地図)、呉国は廃止され、再び、前漢朝の直轄地として、会稽郡(24県を統括。郡都は呉県城)が復活設置される。
紀元前 106年、7代目皇帝・武帝は全国支配をさらに強化すべく、全国を 13州に分割すると、会稽郡は揚州に帰属された。

9年、王莽が前漢朝から権力を簒奪し、新王朝を建国すると、呉県は泰徳県へ改称されるも、後漢朝が復興された 25年、初代皇帝の光武帝により再び、泰徳県から呉県へ戻される。

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8代目皇帝・順帝の治世時代に入ると、会稽郡は大いに人口規模が拡大し、かつその管轄範囲が広すぎて統治困難となったため、129年、北東部が分離されて呉郡が新設される(郡都は呉県城、13県を統括)。
会稽郡の郡役所は 山陰県城(今の 浙江省紹興市の中心部)へ移転された。上地図。

後漢末期の戦乱期にあった 195年、孫策配下の武将である 朱治(156~224年)が呉郡を攻略すると、そのまま太守職を継承し、 当地に駐留する。
以後、当地は三国時代を通じて、孫呉の版図下で重要拠点の一角を担うこととなる。この時代、呉県城を郡都する呉郡下には 15県城が配されていた。

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266年、孫皓により、呉郡下の 陽羡県、余杭県などの 5県と丹陽郡下の数県が分離されて、呉興郡が新設される。上地図。
以後、西晋朝時代を通じ、呉郡、丹陽郡、呉興郡の 3郡は、三呉の地と総称された。

280年に最終的にその孫呉を滅ぼした西晋朝は、全国を 19州に再編し、呉郡は引き続き、揚州に所属された。
283年、呉県下の海虞郷が分離され、海虞県(今の 蘇州市常熟市)が新設される。下地図。

東晋朝時代の 326年、3代目皇帝・成帝は実弟の司馬岳を呉王に封じ、呉郡を呉国へ改編する。
その後、司馬岳は琅琊王へ移封され、実質的に呉国は廃止されるも、東晋末まで呉国という通称は継承されることとなった。

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南北朝時代の劉宋朝の治世下の421年、「通称:呉国」の地に呉郡が正式に復活設置される。
507年、呉郡から信義郡が 分離・新設される。
540年ごろには、信義郡下で 昆山県(今の 蘇州市昆山市)が新設される。また同年、海虞県(今の 蘇州市常熟市)が常熟県へ改称される。こうして、現在にまで続く「昆山」と「常熟」の地名が誕生することとなった。

549年、北朝の東魏と 南朝の梁とが和議を締結すると、 当時、梁へ投降していた将軍の侯景はその立場を不安視し、梁朝の王都・建康城を攻め落とし、 武帝が幽閉中に死去してしまうと、自身が皇帝に即位し漢国を建国するに至る。このとき、 呉郡を呉州へ改編している。しかし、翌 550年に侯景が部下によって殺害されると、 梁朝が再建される。このとき、呉州はもとの呉郡に戻される。
しかし、梁朝にはかつての統治力が完全に失われており、557年10月に権力禅譲の形で 陳霸先が陳朝を建国することとなる。

翌 558年、呉郡下の 海塩県、塩官県、前京県の 3県が分離され、海寧郡が新設される。 さらに続いて、銭唐県、富陽県、新城県なども分離されて銭塘郡が、 建徳県、寿昌県、桐盧県などが分離され新安郡が新設される。
以降、呉郡の管轄下には 呉県、昆山県、常熟県、嘉興県(現在の 浙江省嘉興市)の 4県のみ残された。

587年、揚州下にあった呉郡、銭塘郡などが分離され、呉州が新設される。このとき、呉県城(今の 蘇州市中心部)は 呉州の州都と呉郡の郡都を兼ねる行政と中心拠点となる。

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589年、隋朝が陳朝を滅ぼすと(上地図)、呉郡が廃止される(呉州は残される)。 また、県城の西にあった姑蘇山から命名されて、その呉州は蘇州へ改称されることとなる。 この時、「蘇州」の地名が史上初めて登場することとなった。
蘇州は 呉県、昆山県、常熟県、烏程県、長城県の 5県を統括した。

陳朝滅亡後も江南地方では豪族や民衆らの反乱が頻発しており、蘇州城の安全性が危惧されたため、591年、 隋朝の軍事大臣であった楊素が蘇州城の南西部にある 横山(七子山)と黄山の間に 城壁(城廓)を建造し、 州役所や県役所などの行政機関が新廓へ移転させることとなる。この新郭の地名は今日でも現存するという。

2代目皇帝として煬帝が即位した 605年、蘇州が呉州へ戻され、607年には全国レベルで郡県制が復活される こととなり、呉州は呉郡へ改編される。
隋末に全国で民衆反乱が勃発すると、江南エリアでは呉郡城を拠点に劉元進が割拠した。下地図。

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唐代初期の 621年、呉郡は蘇州へ戻される(江南道に帰属。733年に東西に分離されると、江南東道に属す)。
696年、呉県の東部が分離されて、長洲県(かつて域内にあった長洲苑から命名)が新設される。ただし、県役所はそのまま 呉県城内に併設されることとなる。
742年に一時的に蘇州は呉郡へ再改名されるも、758年に蘇州へ再び戻されると、浙西道に所属された。 また、あわせて節度使の役所が蘇州城内に併設される。

唐朝が滅びると、898年以降、蘇州城は呉越国の領土下に組み込まれ、中呉府と改名される。下地図。
909年、呉越国王の銭繆が、呉県の南部を分離し呉江県を新設する。
924年、銭繆はさらに中呉府を中呉軍へ昇格させると、中呉節度使の中心都市として、 常州、潤州などを統括することとされた。下地図。
975年、呉越国王の銭俶により中呉軍が平江軍へ改称される(江南道に帰属)。

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最終的に 978年、呉越国は北宋朝に領土を返上する。北宋により蘇州が復活設置され、両浙路轉運使に統括された。
北宋時代の 1113年、蘇州が 平江府(江南道浙西路に属す)へ改編されると、蘇州は再び平江と通称されることとなる。下地図。
平江府城内には 1123年に浙西提挙司が、1130年に浙西提点刑獄司が併設された。

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元代当初はこの北宋時代の統治体制が踏襲されるも、1275年に江淮行省が新設されると、 平江路(平江府から改編)はここに帰属された。
1281年、平江路が 魯花赤(モンゴル語で「長官」の意味)総管府へ昇格される。
1295年、昆山県、常熟県、呉江県(今の 蘇州市呉江区)、嘉定県(今の 上海市嘉定区)の 4県が分離され、州が新設される。

元朝末期の 1356年、張士誠が平江路城を根拠地として割拠すると、大周政権を樹立する。
一時的に隆平府へ改称されるも、翌 1357年には張士誠が元朝に下り、再び元領に組み込まれると、平江路へ戻される。

明代初期の 1367年、平江路が蘇州府へ改編される(江南行中二書省に帰属した)。下地図。
1421年、明朝の王都が北京へ遷都されると、南京は副王都となり、南直隷省の首府として君臨する。蘇州府もここに属した。

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清朝が建国されると、南直隷省が江南省へ改編され、左布政使と右布政使が新設されると、 蘇州府は後者に帰属された。
1661年には、右布政使の役所が 江寧府城(今の 江蘇省南京市)から蘇州城へ移転される。

1724年、太倉州(明代に新設。鎮洋県城。現在の 蘇州市太倉市)が直隷州へ昇格される。 このとき、州下には 鎮洋県、崇明県、嘉定県、宝山県(嘉定県から 分離・新設)の 4県が配された。
また同年、長洲県(蘇州城内に呉県役所とともに併設)下の人口が増加し過ぎて 政務に滞りが発生したため、県域が分割され、南東部に元和県が新設されることとなり、 呉県、長洲県、元和県の 3県が同じ蘇州城内に役所を構えることとなる。

翌1725年、江南省が安徽省と江蘇省に分割されると、江蘇巡撫、江蘇布政使、 蘇州府の諸役所も、すべて蘇州城内に併設されることとなる。
清末の 1860年、太平天国軍を率いた李秀成が蘇州城を占領するも、1863年に清軍により再奪取される。

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1911年10月10日の武昌蜂起に端を発する辛亥革命が勃発すると、11月5日、蘇州でも清朝からの 独立が宣言される。
翌 1912年1月に中華民国が建国されると、蘇州府は廃止され、同時に長洲県と元和県、及び太湖庁と 靖湖庁が廃止され、呉県に吸収合併される。
また同時に、震澤県が 呉江県(今の 蘇州市呉江区)に、昭文県が 常熟県(今の 蘇州市常熟市)に、 新陽県が 昆山県(今の 蘇州市昆山市)にそれぞれ編入される。
日中戦争時代の 1937年11月19日、この蘇州城も日本軍の手に落ちている。


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