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山西省太原市 ~ 人口 435万人、 一人当たり GDP 61,000 元


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  晋陽県城(晋陽古城、太原郡城、并州城)
  太原府城(陽曲県城、太原路城)



【 太原市の歴史 】

太原市一帯では、早くも10万年前には古代原人の生息が確認されているという。
また、義井と東太堡にある新石器時代の遺跡からは、8000~7000年前に形成されていた母系氏族社会文化を有した集落地跡が複数、発掘されているという。

商(殷)王朝時代、太原の地は古代国家の北唐の支配圏に属し、太原市許坦村一帯では当時の遺跡(許坦型文化)が発見されている。伝説によると、付近を流れる汾水の治水工事を成功させた台駘により、太原盆地の土地開発が急発展することとなり、太原の地に文明化がもたらされたという伝説により、今でも台駘は汾水の神として崇められているという。

太原市

春秋時代期の紀元前541年、晋国の将軍・荀呉が北伐軍を率い、今の太原市一帯に割拠した無終国(このとき北方へ追い払われ、最終的に紀元前470年に趙国により滅ぼされる)や咎如国(赤狄系)らを撃破して、一帯を武力併合する。以後、太原市エリアは晋国の版図下に組み込まれた。

紀元前497年、多くの人々が集落地を構えた汾河の傍流である晋水の河畔に晋陽古城(今の太原市南西の汾水の東岸側)が築城される。ここから、都市としての太原市の歴史がスタートする。上地図。

紀元前453年、韓、趙、魏が晋国領を分割し、それぞれ独立を果たす。最終的に紀元前376年、三か国は連合して晋国の静公を廃止し、完全に晋国は滅亡した。
以後、韓、趙、魏の3カ国は三晋とも別称されるようになったわけであるが、これ以降、春秋時代は戦国時代へと移行することとなる。
このとき、趙国はその王都を晋陽城(今の太原市)に開設した。下地図。

太原市

秦の始皇帝が紀元前221年に中原を統一すると、全国を36郡に分け、中央集権統治の導入を図る。
このとき、太原郡が新設され、郡役所は晋陽県城内に開設された。郡下には、晋陽県、界休県(今の晋中市介休市)、鄔県(今の晋中市介休市の北東15km)、兹氏県(今の山西省呂梁市汾陽市巩村にある古城遺跡)、离石県、榆次県、霍人県(山西省忻州市繁峙県の東部)の7県が配された。

前後漢時代、中国全土は13州に区分けされ、并州刺吏部が晋陽県城(太原郡城)内に開設される。以降、今日に至るまで、太原の地は并州(時に、単なる「并」)とも通称されるようになる。
太原郡下には、当初(前漢時代)、21県が設置されたが、後漢時代には16県体制へ縮小される。

太原市

後漢末期、北方の鮮卑族、匈奴らの南下もあり、漢民族の多くが南へ大挙して移住するようになる。
この頃、并州刺吏として晋陽県城に駐在したのが丁原であった。その統治時代に、 猛将・呂布や後に魏の名将と称えられる張遼を配下に加えている。189年に董卓に誅殺されると、并州全土は董卓の 版図下に組み込まれた。

しかし、こうした朝廷内の内紛の最中も、北方からの南下圧力は続き、ついに213年、并州自体が廃止され、冀州へ吸収合併されるに至る。

220年に文帝が後漢朝からの権力禅譲を受け、魏国を建国すると、すぐに并州が復活設置される。一方で、太原郡から西河郡(郡役所は兹氏県城に開設)が分離・新設され、太原郡はさらに12県体制に縮小される。すなわち、晋陽県、陽曲県、榆次県、盂県、祁県、京陵県、中都県、大陵県、平陶県、狼孟県、陽邑県、鄔県の12県である。

時は下って南北朝時代、晋陽城は東魏朝と北斉朝の副王都が開設されており、全国でも屈指の大都市に数えられた。ちょうど、北魏、東魏の激動の時代を生き抜いた高歓と、その次男で後に北斉朝を建国することになる高洋らが活躍したのも、この晋陽城(今の太原市)一帯であった。下地図。

太原市

南北朝時代を統一した隋代においても、晋陽県城(当時は并州城と通称された)は、中国有数の大都市として君臨した。
隋朝末期、李渊と李世民の父子は晋陽城に駐屯し、当時は山西・河東慰撫大使(「唐」地区と通称された)の任で北部守備を担った。後に、李渊父子が隋の朝廷に権力禅譲を強要し、長安で皇帝に即位したとき、その国号を「唐」に定めることとなる(618年5月)。太原市が、唐王朝の発祥の地と指摘される所以である。

唐王朝の治世下、何代にも渡って、時の皇帝は古都・晋陽城の拡張工事を進めることとなる。その都度、北都や北京などへ改称されていった。王都の長安、東都の洛陽と並び、三都、もしくは三京と通称されるほどであった。

五代十国時代、後唐、後晋、後漢、北漢の各王朝は晋陽城を重視し、一時期は王都を開設することもあった。太原市の隆盛はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、当時から昇龍をイメージして龍城と通称されるほどであった。

太原市

しかし、その晋陽県城(并州城)の栄華も突然に終焉を迎えることとなる。
五代十国時代の末期、晋陽城に王都を構えていた北漢政権に対し、北宋軍が総攻撃を加える(979年)。上地図。
北宋朝の初代皇帝の趙匡胤の実弟で、第二代皇帝に即位していた趙光義の率いる親征軍が、晋陽城を占領し、北漢政権を滅ぼすことで、ようやく 五代十国時代に終止符が打たれ、全国統一が完成されることとなった。

しかし、宋軍の攻撃に最後まで頑強に抵抗した晋陽県城(并州城)の軍民らの反骨心を根絶やしにすべく、宋軍は、龍城と称えられ大繁栄を謳歌してきた晋陽城を徹底的に破壊し尽すこととなる。さらに汾水と晋水の河川の水を引き込み、晋陽城全体を水没させてしまう。こうして、1476年間もの悠久の歴史を記した古都は完全に廃塵に帰したのであった。

それから3年後、新たに太原城が築城される。旧晋陽城から北へ20kmあまりにあった唐明鎮城を拡張させる形で工事が進められた。1059年、ここに太原府役所(陽曲県城)が正式に開設される。

太原市

1125年、北宋第9代皇帝の徽宗は遼国との密約がバレて、それまで盟友であった金国と敵対するようになり、金軍の南下侵攻を招くこととなる。自身は責任を取り、皇位を息子の欽宗へ譲る。翌1126年、金軍が北宋の王都であった開封城を包囲するに至り、欽宗は賠償金と領土割譲を飲む形で金国との和議を成立させる。
このとき、中山鎮、河間鎮、太原鎮の3鎮が金へ譲渡された。
しかし、金軍が完全撤退すると、宋朝廷内では和議破棄が決議され、金軍の再来襲を招く形となり、ついに1127年、北宋朝は滅亡する。

この北宋末期、未だ太原地区の人々の中には敗戦と破壊の混乱が色濃く残されていた上に、さらに金国の異民族らの支配を受ける形となったわけであり、実に80年以上もの間、辛酸をなめ続けた。

その後、華北の金朝を滅ぼしたモンゴル軍は元王朝を建国する。元朝の治世下、太原は太原路へ改称された。

太原市

明代初期、朱元璋は自身の第三子である朱棢を晋王に封じ、太原府へ派遣する。このとき、太原府城(陽曲県城)に大幅な拡張工事が加えられ、王宮が建設された(上図)。明代を通じて、9箇所あった重要な国境守備の一つとして、軍事的に重視されることとなる。

清代も引き続き、太原府が開設され、その府役所は陽曲県城内に開設された。下地図。

太原市

1860年の北京条約締結後、外国使節と宣教師が中国全土での活動を許可されると、太原府にも欧米人が立ち入るようになる。
1911年の辛亥革命時、閻錫山(1883~1960年)は革命軍のリーダーとして清軍を撃破し、翌年、袁世凱から山西都督に任命される。こうして、太原城を拠点とする晋系軍閥政権が成立する。 その後、閻錫山は山西省一帯を38年にも渡って統治し、積極的に土地・資源開発と近代産業の導入をけん引して、山西省を全国でも最も豊かな省の一つへと導くこととなる。最終的に国境内戦下の1946年、 共産党軍により省都・太原城も包囲され、閻錫山は脱出して、台湾へ逃亡することとなる。

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