BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 泰州市 ~ 人口 510万人、 一人当たり GDP 65,000 元


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  海陵県城(海陽邑城、亭間県城、海陵郡城、呉陵県城、泰州路城、泰州城)
  臨澤県城
  斉昌県城
  海安県城(海安鎮城)
  江浦県城
  興化県城
  如皋県城
  東台県城



【 泰州市の 歴史 】

古くは、泰州市一帯は長江の河口部近くの遠浅の海岸線エリアを形成しており、だいたい 7000~10000年前より陸地化が進んだと考えられている。
約 5000年前にはすでに人類の集落が複数、存在しており、夏王朝や殷王朝の時代には海岸エリアと認識されていた。

西周時代には海陽と呼称されており、呉国の版図下に組み込まれた。
春秋戦国時代に突入すると、当地の支配者は 呉国(紀元前 473年滅亡)から、越国(紀元前 334年滅亡)、楚国(紀元前 223年滅亡)へと変遷していった。
楚国の治世下、当エリアに海陽邑が開設される。

泰州市

前漢時代、海陽邑が海陵県へ昇格される(臨淮郡に帰属)。上地図。
なお、この臨淮郡であるが、7代目皇帝・武帝により、紀元前 117年に新設されたもので、29県を統括した(海陵県はその一つ)。
また、海陵県の由来であるが、東側を海に面する高台という意味から命名されたという。
この漢代の海陵県役所がどこにあったかは定かになっていないが、唐代以降は今の泰州市の 中心部(海陵区)に県城が設置されることになる。

王莽の新王朝の時代には、海陵県は亭間県へ改称されるも、後漢朝が復興されると、再び海陵県へ再変更される(広陵郡に所属)。

泰州市

三国時代期、長江と淮河との間では度々、魏呉が死闘を繰り広げた(上地図)。孫呉の勢力が弱体化し、長江以北の防衛がままならなくなると、海陵県は廃止され、住民らが長江南岸へ移住させられている。
最終的に、西晋朝の司馬炎が孫呉を滅ぼし、三国時代を統一した 280年、海陵県が復活設置される(広陵郡に帰属)。

以後、東晋時代もこの行政区が継承され、南朝の劉宋時代の 472年、海陵県から臨澤県が分離・新設される。483年ごろ、斉昌県と海安県の 2県がさらに増設される。

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479年に劉宋王朝から権力禅譲される形で誕生した 斉朝(南斉)の治世時代も、引き続き、海陵県は広陵郡に属したが、続く 梁朝(南梁)時代、海陵県は海陵郡下へ移籍される。

なお、この 海陵郡(南兗州に所属、上地図)であるが、その始まりは東晋時代末期の 411年に新設され、当初は 建陵県、臨江県、如皋県、寧海県、蒲涛県の 5県を監督した。
初期の郡役所がどこに開設されていたのかは不明とされ、この梁朝時代に海陵県城へ移転され、配下に 海陵県、建陵県、寧海県、如皋県、臨江県、蒲涛県、臨澤県の 7県を統括するまでに拡大された。

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北斉時代、南兗州は東広州へ改称され、引き続き、海陵郡は東広州に属し、海陵県など 7県を統括した(上地図)。
南朝の陳朝治世下の 573年、東広州は南兗州へ戻され、北周朝時代にはさらに 呉州(州都は丹陽城 ー 今の 江蘇省南京市)へ改称される。
海陵郡はそのまま呉州に帰属され、海陵県、建陵県、如皋県、寧海県(蒲涛県と臨江県を吸収合併)、臨澤県の 5県を統括した。

隋代初期の 583年、海陵郡が廃止される。
同時に、建陵県が海陵県に、如皋県が寧海県に、臨澤県が高郵県にそれぞれ吸収合併される。
しかし、間もなく、海陵県から江浦県が分離・新設される。 589年、呉州(州都は丹陽城 ー 今の 江蘇省南京市)が揚州へ改称されると、海陵県はそのまま揚州に属した。

2代目皇帝として煬帝が即した直後の 605年、揚州は 江都郡(郡都は引き続き、広陵県城)へ改編される。同時に、江浦県が廃止され、再び、海陵県に編入される。下地図。

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唐代の 620年、海陵県は呉陵県へ改称される(引き続き、江都郡に帰属)。
625年に揚州の州役所が 丹陽城(今の 江蘇省南京市)から 広陵県城(広陵郡城)へ移転される。
同時期、寧海県が海陵県へ編入され、708年、海陵県の東部が分離されて海安県が復活設置される(826年、海安県は再び廃止)。下地図。

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五代十国時代の楊呉朝の治世下、海陵県は江都府に属した(上地図)。 920年、海陵県の北部にある招遠場に興化県が新設される。
928年ごろ、海陵県城内に海陵制置院が併設される。

南唐時代の 937年、泰州が新設される(州都は海陵県城)。同時に、海陵県の南部にある 5郷が分離され、泰興県が新設される。
この頃、泰州は 海陵県、泰興県、塩城県、興化県の 4県を統括した。
952年、海陵県下の如皋場が分離され、如皋県が新設される(そのまま泰州に帰属、下地図)。同年に、海陵県の東部に静海制置院が新設される。

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北宋時代の 967年、全国が 15路に区分けされると、泰州は淮南路に属した。
1072年に淮南路がさらに東西に分離されると、泰州は淮南東路に管轄される。この頃、泰州下には海陵県など 5県が存在した。
1077年に塩城県が楚州へ移籍されると、泰州は 海陵県、興化県、泰興県、如皋県の 4県のみの管轄となる。

泰州市

南宋時代も引き続き、泰州は淮南東路に帰属される。
1130年に、興化県が承州へ移籍されると、泰州下には 海陵県、如皋県、泰興県の 3県のみ存続することとなる。
1135年、泰興県が揚州へ移籍され、興化県が廃止されて海陵県へ吸収合併されると、泰州には 2県のみが残される(1149年、興化県は復活設置される)。
1140年、泰興県が再び泰州へ再転入すると、泰州の州役所が一時、泰興県城へ移転される(1142年、泰興県は再び揚州の管轄域へ再転出)。
1166年、興化県が高郵軍へ移転されるも、間もなく、泰州の管轄下へ戻される。1177年に、再び興化県が高郵軍へ転出されると、泰州下には海陵県と如皋県の 2県のみ残された(下地図)。

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元代の 1277年、泰州路が設置されると、淮東道に帰属された(1282年に江淮行省の帰属へ改編)。
1284年に、泰州路が泰州へ降格されると、揚州路に属された(上地図)。
この時も、泰州は海陵県と如皋県の 2県のみ統括した。

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明代の 1368年、海陵県が廃止されると、旧県域は泰州の直轄となる。泰州は引き続き、揚州府の管轄下にあり、如皋県のみを統括した(上地図)。

清代も引き続き、泰州は揚州府に帰属し、如皋県のみを統括する。
1725年、如皋県が通州へ移籍されると、泰州は配下に県城を有しない散州となる。
1768年、泰州の北東部に東台県が新設される。

中国民国が建国された直後の 1911年、全国レベルの行政区改編にあわせて、泰州が泰県へ改称される。1913年には江蘇省下の淮揚道に、1927年には江蘇省の直属とされた。


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