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甘粛省天水市 ~ 人口 370万人、 一人当たり GDP 14,500 元


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  秦州城(天水郡城、【二代目】上邽県城)
  諸葛軍塁(邽県城、【初代】上邽県城、孔明北伐の記念公園)
  清水県城(識睦県城、坻聚県城)
  趙充国の記念公園
  諸葛垒村(第一次北伐戦で、孔明が訪問した蜀軍の陣地跡)
  冀県城(冀城県城、伏羌県城)
  西県城
  显新県城
  成紀県城
  秦安鎮城(成紀県城、秦州城)
  略陽県城(街泉県城)と街亭の古戦場跡
  隴県城(隴城寨)



【 天水市の歴史 】

この地域は、元来、渭河や耤河(渭河の支流)が運ぶ肥沃な土壌を背景に動植物が繁茂し、かつまた、急峻な山岳地帯や草原地帯が広がり、馬の飼育が盛んに行われてきた土地である。こうした環境が秦や西域民族の強力な騎馬軍団形成の基礎となったわけである。

紀元前688年、秦国の武公はこの地に跋扈した邽戒族らを平定し、新たに邽県役所(現在の天水市秦州区の耤河南岸)を設置する。後に、上邽県へ改名される。今の天水市全体がここの管轄下に組み込まれた。

紀元前221年、秦の始皇帝が中国全土を統一すると、全国統治機構として36郡が設置され、上邽県は隴西郡に帰属されることとなる。

天水市

前漢時代、その勢力が西域へさらに拡張されるに伴い、 7代目皇帝の武帝の治世下の紀元前115年、上邦県から分離される形で清水県(今の天水市清水県永清鎮李崖村に開設)が新設される。
続いて、紀元前114年に隴西郡から天水郡が分離・新設され、上邽県および、清水県は天水郡へ移籍される。ちなみに、この「天水」の命名は、秦末の「天河注水」の伝説に由来するという。天水の名は今日も使用され、大陸中国でも最古の地名の一つとなっている。

前漢王朝から権力を簒奪した王莽による新王朝の治世下、清水県は識睦県へ改称される。しかし、新王朝の旧態復古の統治方法は多くの矛盾を噴出させ、各地に農民反乱と軍閥勢力を生み出すこととなる。このとき天水市一帯は、蜀地方に勢力圏を張った公孫述の支配下に組み込まれた。

その公孫述の軍閥政権も36年に後漢の劉秀により滅亡させられ、後漢王朝による中原の再統一が完成される。後漢時代の74年、清水県は坻聚県へ改称される。

天水市

時は三国時代。魏の曹操が220年に死去すると、息子の曹丕が魏王となる。このとき、秦州が新設され、天水郡の郡都であった冀県城内(今の天水市甘谷県の南東部)に、州役所が併設される。天水市の一帯は、もともと秦王朝の発祥の地であり、これにちなんだ命名となったという。
また、あわせて坻聚県が清水県へ戻される。

翌221年には、天水郡から広魏郡が分離・新設され、清水県、平襄県、略陽県、臨渭県(郡都を兼任)の 4県が広魏郡の管轄下へ移籍される。
天水郡下には、冀県(今の甘谷県南東部)、显新県(今の秦安県の北西部)、成紀県、西県、上邽県、新陽県(今の天水市麦積区新陽郷)の6県が配された。

天水市

この地で 228年、27歳の姜維は諸葛亮の第一回北伐軍の前に降伏し、蜀へ帰参することになる(上地図は 第一回北伐時の蜀軍作戦マップ)。
もともと天水郡一帯で、姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる名門豪族であり、姜維は戦死した父に代わり取り立てられ、雍州刺史の従事、そして、天水郡の軍事担当へと栄転していたころ、諸葛亮の率いる蜀軍が北上してくる。このとき、天水郡太守の馬遵とともに姜維ら中核部下もその偵察に同行していたが、蜀軍に早々と降伏した前線の諸県の話が伝わるにつれ、配下の姜維らも寝返ることを恐れ、馬遵は部下を放置して、この上邽県城へ逃亡してしまう。 姜維らは城内への入城を許されず、そのままやむなく、天水郡の郡役所があった冀県城(今の天水市甘谷県)へ引き返すも、 ここでも入城かなわず、行き場を失った姜維らは諸葛亮に降伏することになってしまうのであった。


西晋の時代に入り、天水郡の郡役所は上邽県城内へ移転される。また、広魏郡は略陽郡へ改称される。

南北朝時代に入ると、西方より多くの民族らが流入し、また多くの王朝が建立されては打倒されることが続いたため、天水市一帯の経済や治安も大きなダメージを受けることとなった。

天水市

特に華北部では五胡十六国時代という周辺民族による王朝乱立が起こる。この時期に、前趙が天水郡を3県体制に縮小させて以降、後趙、前秦、西秦朝がこれを踏襲した。また、秦州の州役所は引き続き、天水郡都の上邽県城内に併設された。
西域の大夏が侵入してきた折は、天水郡自体は占領を免れるも、清水県城などの北部山岳地域が陥落し、ここの住民らの大部分は大夏へ連れ去られている。
北魏朝のころ、天水郡下には上邽県、显新県、平泉県、当亭県の4県が配されていた。西魏朝もこれを継承する。北周朝のころには、天水郡は上封県と黄瓜県の2県体制に縮小される。

天水市

隋代に入り、607年、全国的に州制が廃止されたため、秦州は天水郡へ改編される。州役所は引き続き、上邽県城内に開設され、その下に秦嶺県(今の天水市北道区)、成紀県(今の秦安県の北西部)、隴城県(今の秦安県北東部=街亭古戦場一帯)、清水県、冀城県(今の甘谷県の東部)の6県を統括することとなる。上地図。

唐代の616年、天水郡は一時的に秦州へ戻されるが、すぐに天水郡に戻され、そのまま継承される。その管轄域は隋代のものから、長道県(今の礼県の北東部)を加えて、隴城県が分離されることとなる。また、冀城県は伏羌県へ改称される。
しかし、758年に全国で州制への統一が進められ、以後、天水郡の名は歴史から完全に消滅することとなり、この地は秦州と呼称されるようになる。

天水市

唐代を通じ、天水市一帯は王都・長安から連なる西域シルクロードの交通の要衝となり、上邽県城(今の天水市秦州区の耤河南岸)は秦州の中心都市として、経済、行政、文化が大発展することとなった(上地図)。
西インドへ仏教の経典を求めて旅立った玄奘もこの地に一泊し、また、唐中期の安史の乱を避けた杜甫も、この地へ避難している。

時は下って、元代には、久しい戦乱で荒廃していた上邽県城から成紀県城内へ秦州役所が移転される。明代に入って、耤河の北岸(今の秦州区中心部)に新たに築城された上邽県城へ州役所が再移転され、州都として復帰を果たすこととなる。

清代も明代の行政区がそのまま継承された後、 1729年、秦州が直隶州へ昇格され、甘粛承宣布政使司の管轄下に置かれた。中華民国時代の1913年、秦州が廃止されて、天水県が設置されるに至る。


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