BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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陝西省 銅川市 ~ 人口 88万人、 一人当たり GDP 34,000 元


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  銅官県城(同官県城)



【 銅川市の 歴史 】

銅川市一帯は、夏王朝、商王朝の時代、雍州に帰属した。秦王朝の時代、中央政府直轄地として内史の管轄下とされる。 前漢時代の紀元前 141年、征西将軍「馬賢」が 西域民族「羌人」の反乱鎮圧に派遣されるも、 敗北して処刑されると、前漢王朝の宮廷は恐怖に包まれる事態となる。そして、それまであった北地郡を馮翊郡へと改名し、 その郡役所を高陵へ移転させている(現在の 陝西省銅川市高陵県の西南にあたる)。さらに 155年、馮翊郡が東西に分割され、 現在の銅川市一帯は、西馮翊郡に帰属されることとなった。

銅川市

後漢時代の 185年、郡役所をかつての場所へ移転しようと計画されたが、黄巾の乱や群雄割拠時代となり、 逆に郡役所は度々移転を余儀なくされ、最終的に懐徳の地に決定された。現在の陝西省銅川市富平県である。
三国時代、魏は再び、北地郡を復活させ、銅川市一帯はこの管轄下とされた。


そして南北朝時代、北魏王朝の治世下の 446年、北地郡下として銅官県が設置される(県役所は今の 銅川市から東南へ 5 kmの高坪村)。この地名は、主要都市「長安」の守りであった潼関の発音とかけての命名らしい。さらに、北周王朝自体の 575年、銅官県は同官県へと改名され、宜州に帰属された(漢字は違えど、銅官県と同官県の発音は同じである)。その県役所も、今の銅川市の北にある印台区へ移転される。その後も、雍州、京兆郡、耀州と所属地が変更される。清滅亡後の 1913年、西安府の直属地とされた。後に、陝西省関中道へと帰属地が変更されている。

銅川市

現在の銅川市中心部は、近代以降に開発されたものである。北周時代に移転されてきた 同官県(銅官県)城跡は、銅川市印台区の城関村にある。なお、この古城跡であるが、全くかつての面影が見られない。路地名にもほとんどその記憶がなくなっていた。同官路、南街、方泉路。


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