BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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吉林省 通化市 ~ 人口 132万人、 一人当たり GDP 39,000 元


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  赤柏松城跡
  自安山城跡(石頭城跡。上殷台県城。通化市東昌区江東郷自安村の夹心子)
  輝発古城(明代の女真扈倫族輝発部族の 城塞集落跡)
  三角龍湾国家森林公園(通化市輝南県)内に現存する、古城壁、烽火台跡、古戦場跡
  国内城(高句麗の二代目・王都跡)
  丸都山城(尉那岩城。高句麗の 王都・国内城の後方拠点)
  高句麗県城(玄菟郡城)
  西盖馬県城
  羅通山城
  哥勿州都督府城(海龍府城。今の 通化市輝南県三合堡)
  通化県城(正州城。今の 通化市通化県の中心部)
  桓州城(今の 通化市集安市)
  慕州城(今の 通化市柳河県)
  照散城(今の 通化市梅河口市山城鎮)



【 通化市の 歴史 】

通化県大安鎮にある旧石器時代の洞穴遺跡から、大量の古代生物の化石、骨片、 先端が鋭利に研がれたナイフ型や 矢じり型の石器類、生活に用いた火の痕跡などが発見され、20,000~40,000年前の旧石器時代、既にこの通化市一帯で古代人類の生息があったことが確実視されている。
5000~6000年前の新石器時代においては、現在の通化市域を流れる渾江の両岸に、古代人類が狩猟採集、農耕生活を営み、集落を形成し定住していた、と考えられている。その後、長い年月かけて、徐々に 華夏族、粛慎族、濊貊族の三大言語系の部族集団へ分派され、棲み分けされていったという。

3000年前ほど前、中原で西周王朝が建国された時代には、今の通化市一帯は粛慎族の生息テリトリー南端部分に位置していた。それから 200年ほどが過ぎた頃、南方から伝わる中国大陸の 農業文化、牧畜文化などに接した集団が「濊貊族」と呼ばれるようになり、それまでの「粛慎族」とは一線を画す存在として台頭してくる。下地図。

その後、西周王朝により滅ぼされていた 殷(商)朝の王族出身の箕子が、西周王朝の公認の下、朝鮮半島北部に「箕子朝鮮」を建国し、周王朝下の封国の一つとして君臨すると、次第に強大化し、現在の通化市一帯をも支配下に置くようになっていく。下地図。

通化市

中原で西周王朝が滅び、東周朝がかろうじて存続されていた 時代(紀元前 770~前 256年)、各地で諸侯が力を持ち始め、春秋戦国時代を迎えることになるわけだが、この群雄割拠の時代、現在の通化市一帯は燕国の支配地に組み込まれ、遼東郡に統括されていた。朝鮮半島北部にあった「箕子朝鮮」は燕国に帰順し、引き続き、その命脈を保つこととなる。

この時代の集落遺跡が、現在の通化市二道江区に残る樺樹河口城跡である。
北面は急峻な崖に面し、その真下に臨渾江が流れており、また東面は樺樹河の渡河ポイント、南面は樺樹河、西面は龍山山脈に囲まれる、総面積約 5万 m2 もの規模を誇る城塞集落であった。考古学的な調査により、この春秋戦国時代~前後漢時代に使用されていた、と推定されている。

紀元前 222年、秦国が燕国を滅ぼし、翌紀元前 221年に全国統一を成し遂げると、引き続き、遼東郡に統括される。この時、旧燕国の遺民の一部らが遼東郡を越え、長白山の西側まで落ち延びて、「箕子朝鮮」の国境地帯に住みつくこととなった。後に「箕子朝鮮」も秦朝に帰順したため(紀元前 214年)、しばらく不安定の立場に置かれたようである。下地図左。

通化市

しかし、間もなくの紀元前 206年、項羽や劉邦らに率いられた諸封連合軍により、秦王朝が滅亡に追い込まれると、直後より楚漢戦争がはじまり、中原は再び乱世と化す。この時、旧斉国や 旧趙国、旧燕国から多くの難民が東端の「箕子朝鮮」へ流入してくると、彼ら漢民族らを糾合した旧燕国の 将軍・衛満(生没年不詳)が台頭して「箕子朝鮮」を滅ぼし、「衛氏朝鮮」を建国することとなる(紀元前 195年ごろ)。以降、現在の通化市一帯は、その国境地帯に位置することになった。上地図右。

その「衛氏朝鮮」も、紀元前 108年、前漢朝 7代目皇帝・武帝の東方遠征により滅ぼされると、中国東北地方の南部や朝鮮半島まで直轄領に組み込んだ前漢朝は、遼東半島地区に玄菟郡を新設し(紀元前 106年に設置された幽州刺史部に帰属)、その下に 高句麗県、上殷台県、西盖馬県の 3県を設置して、旧「衛氏朝鮮」領を統括させることとした。下地図。
この時、現在の通化市一帯は、上殷台県に属した。この上殷台県城があった場所が、現在の 通化市東昌区江東郷自安村にある自安山城跡である。また、通化市通化県赤柏松村にある赤柏松城跡も、この時代の城塞遺跡という。

通化市

前漢王朝末期の紀元前 37年、扶余族の 王族・朱蒙(鄒牟。チュモン。紀元前 58~前 19年)が、配下の部族らを率い、玄菟郡下の高句麗県を占領すると、高句麗王朝を建国する。当初、その王都は 紇升骨城(今の 遼寧省本溪市 桓仁満族自治県桓仁鎮劉家溝村にある五女山城跡)に開設された。

紀元後 3年、勢力をさらに拡大させた高句麗は、王都を 国内城(今の 通化市集安市の中心部にある高句麗遺跡公園)へ遷都する。現存する 丸都山城跡(当初は尉那岩城と呼ばれた。今の 通化市集安市の中心部から西側にある、丸都山の山上)は、この時、王都を守備するために、北 2.5 kmの老嶺山脈上に同時築城された城塞であった。以降、この渾江流域一帯は、高句麗族の勃興の地として神聖視されることになる。

後漢朝を建国し全国再平定を目指す 光武帝(紀元前 6~後 57年)の治世下の 32年、高句麗も後漢王朝に帰順し、玄菟郡に統括されることとなる。こうして、現在の通化市エリアも、後漢朝の支配下に組み込まれた。
通化市

時は下って後漢末の 189年、公孫度(150~204年)が遼東太守に任じられると、遼東地方の有力豪族らを次々と粛清し、最終的に遼東郡や玄菟郡など 5郡を併合してしまう。204年に父から太守職を継承した 公孫康(生没年不詳)は、遼東候として後漢朝からの独立を宣言すると、 209年、北隣の 大国・高句麗遠征を決行して大勝し、そのまま高句麗を帰順させることとなる(上地図)。

中原で魏の 曹操(155~220年)が台頭し、その子の 曹丕(文帝。187~226年)が魏王朝を建国した直後の 220年、公孫康はその臣下となる誓約を交わすも、度々、魏朝廷の命令を無視、反故にしたため、ついに 238年、司馬懿(179~251年)の率いる魏軍により討伐を受ける。同年内にも 公孫淵(公孫康の子。?~238年)をはじめとする公孫氏一族の大部分が 捕縛・処刑され、朝鮮半島の中部に至る遼東半島一帯の 5郡は、すべて魏領に併合されることになった。

その北側にあった旧高句麗は、当初こそ、魏に協力して公孫氏を挟撃したものの、国境を接するようになり、魏王朝との間で齟齬が生じることとなると、度々、反乱を起こすようになっていく。ついに 244年、魏の幽州刺史であった 母丘儉(?~255年)が、数万もの大軍を率いて高句麗討伐を決行すると、 両軍は 梁口(今の 通化市通化県江口村)などで激突し、最終的に魏軍は丸都山城を攻略して、旧高句麗領を蹂躙したのだった(下地図)。この時、母丘儉が王都跡に設置した戦勝紀念の石碑が、今も遼寧省博物館で保存されているという。
以降、今の通化市一帯は、完全に魏王朝の支配下に組み込まれることとなった。

通化市

265年、魏王より権力禅譲を受けた 司馬炎(236~290年)が西晋王朝を建国すると、 274年に平州が新設され、その下に 遼東郡、玄菟郡、帯方郡などが統轄される(この時、今の通化市一帯は玄菟郡に属した)。


280年、西晋王朝はついに呉を滅ぼし三国統一に成功するも、太平の世を長くは維持できず、すぐに朝廷内で内紛が、地方では豪族や異民族らの反乱が勃発し出す(永嘉の乱)。以降、華北地方では五胡十六国時代と呼ばれる、短命政権ができては崩壊するという繰り返しが 300年近く続くこととなった。この時、中国東北部でも、度々、その 支配者(前燕、後燕など)を変えることになる。北方に追いやられていた高句麗も、華北地域に樹立した中原王朝に都度、帰順しつつ、この時代をやり過ごしていくのだった。
なお、現在の通化市柳河県にある 羅通山城跡(下地図)は、この頃に築城されたものと推定されている。また、通化市集安市中心部の北側の丘陵部に残る禹山 3319号墓遺跡も、この時代に生きた高句麗貴族の墓所と考えられている。

通化市

華北地方で北魏王朝が勢力を張っていた 425年、高句麗もまた徐々に領土を南方へ拡大し、王都を平壤へ遷都する(上地図)。
同時期、長白山の北側に割拠していた粛慎族も次第に強大化し、勿吉国を建国すると、現在の通化市エリアの北側にまで勿吉国の勢力が伸長してくることとなった。上地図。

中原で南北朝時代を統一した隋王朝の治世下でも、この勢力図が維持されていく。なお、勿吉国は北朝時代から続く朝貢関係を隋朝とも結んでおり、この隋代以降、「靺鞨」と呼称されるようになる。靺鞨族は隋軍の高句麗遠征にも協力し出兵に応じている(この靺鞨族が、後に女真族となる)。

通化市

隋王朝が 3回、唐王朝も 3回もの高句麗遠征を繰り返し、ついに 668年、唐軍は新羅と連合を組み、高句麗滅亡に成功する(上地図)。以降、旧高句麗領は唐王朝の支配下に組み込まれ、安東都護府に管轄されることとなった。

この時代、今の通化市一帯は、河北道安東都護府下の 哥勿州都督府(今の 通化市輝南県三合堡)に統括される。下地図。

通化市

しかし、唐王朝による直轄支配が差別的であったことから、地元部族の反乱が繰り返されるようになり、その中でも最大勢力だった靺鞨族の 族長・大祚荣(?~719年)が、旧高句麗遺民らと合流し、震国を建国するに至る(698年)。
唐朝からの数度の討伐軍を撃破した大祚荣であったが、713年、ついに唐王朝に再帰順することとなり、唐朝廷から公認を受け渤海郡王の称号を下賜される。以降、そのテリトリーは渤海国と称されるわけである。

この時代、今の通化市一帯は渤海国下の西京鴨緑府正州に属し、その正州役所が、今の通化市通化県の中心部に開設されていた(下地図)。現在の通化市通化県四棚郷三棚村で出土した金鉢は、この渤海王朝時代の遺物と特定されている。

しかし、その渤海国も 926年、西方から台頭した契丹族により滅ぼされると、その旧領は 大契丹国(947年に遼王朝へ改称)の支配下に組み込まれる。

通化市

1017年、遼王朝により正州が復活設置されると、現在の通化市一帯はそのまま東京道遼陽府正州の管轄区となる(上地図)。

その後、遼王朝は北宋朝からの毎年の献上金で資金力を蓄え、内モンゴル高原や チベット方面へも勢力を拡大し、大帝国を現出させるわけだが、次第に騎馬民族出身だった貴族層らが弱体化してしまい、周辺部族への抑止力が低下していく。この隙に、中国東北部では女真族が反旗を翻して金王朝を建国すると(1115年)、遼朝廷は 6万もの大軍を派遣して 照散城(今の 通化市梅河口市山城鎮)を攻撃するも、逆に益褪水を渡河し夜襲作戦を決行してきた金軍に大敗し、そのまま勢いに乗った金軍により、遼陽府城まで攻略されてしまうのだった。

通化市

その後、北宋朝と協力して遼王朝を滅亡させた金王朝は、東京路下の 婆速府(今の 遼寧省丹東市 振安区九連城鎮。上地図)に、現在の通化市一帯を統括させる。
直後より、北宋朝とも決裂した金王朝は、そのまま華北地帯を占領し北宋朝を滅ぼすも(1127年)、その 100年後には北方で台頭してきたモンゴル軍により、滅亡に追い込まれるのだった(1234年)。
以降、モンゴル人による元王朝の支配時代、当初は沈陽路に統括され、1261年に遼東地方に 「高麗女真漢軍万戸府管女直侍衛親軍万戸府(略称:女直侍衛親軍万戸府)」が新設されると、これに属した。 1287年には遼陽行省が新設されると、現在の通化市一帯は、この遼陽行省遼陽路下の婆娑府の管轄下に組み込まれた。

なお、婆娑府は 1280年に金代の婆速府から改編されたもので、府役所は引き続き、今の 遼寧省丹東市 振安区九連城鎮に開設されていた(上地図)。1288年には婆娑巡検司へ降格されることとなる(下地図)。
この時代の遺物として、現在の通化市通化県大都嶺鎮から、元朝左衛阿速親軍千戸の印が出土している。
通化市

1368年1月、江南地帯を平定した 朱元璋(1328~1398年)により明王朝が建国されると、さらに華北地方に残存していた元王朝の内紛につけ込み、大軍を華北へ派遣し、1370年に 首都・大都 をも陥落させ、モンゴル勢力を北方へ追放してしまう。
朱元璋はさらに北伐を継続し、中国東北地方南部の併合にも成功すると、 1377年に遼東指揮使司を設置する。

3代目皇帝・永楽帝(1360~1424年。朱元璋の四男)も、さらに東方、北方への領土拡張策を推し進め、 1409年、中国東北地方の北端まで征服すると、奴児干都司(現在の ロシア共和国ハバロフスク地方ティル村)を新設する。その配下に、各地の部族集団を統括する衛所が開設されていくこととなった(実際には、各衛所の役所業務は、地元部族長に委託されており、明朝は間接統治に徹していた)。下地図。
この明代を通じ、女真人らは継続的に居住テリトリーを南へ南へと拡張させ、建州衛の行政区だった現在の通化市一帯も(下地図)、女真族の主要な居住地区となっていく。

通化市

明代末期の 1616年、この建州衛都僉事だった ヌルハチ(1559~1626年)が、後金朝を建国し独立を宣言すると、赫図阿拉(今の 遼寧省撫順市 新濱満族自治県新濱鎮の中心部。下地図)に王都を定める。
以降、今の通化市一帯は、この 後金朝(後に清王朝へ改称)が明朝と対峙し、華北地方へ進出していく際、重要ルートとなっていくわけである。下地図。

1646年、清朝 3代目皇帝・順治帝(1638~1661年。ヌルハチの 孫・フリン)により、清王朝の王都が 北京 へ遷都されると、満州族の出身地だった中国東北部には、盛京将軍、吉林将軍、黒竜江将軍が設置され、その下に各行政庁や軍隊が配置される。
1657年、奉天府(現在の 遼寧省遼陽市)が新設されると、今の通化市一帯はこれに統括された。

通化市

1877年、現在の通化市通化県の中心部に「通化県」役所が開設される。これが、通化市域における最初の県役所設置として、その歴史に記録されることとなった。
その後、清末の 1908年には、通化県下から 臨江県、長白県、輯安県、柳河県の 4県が分離・新設される。

中華民国が建国されると、1913年に新設された奉天東辺道に統括された。
1931年9月18日の満州事変を経て、日本統治がスタートすると、通化省が新設される(1937年)。通化県城がそのまま省都に定められる。

1942年、通化県通化街が分離され、通化市(現在の市中心部)が新設されると、引き続き、通化省に属した。戦争末期となった 1945年、満洲国・首都が 長春 から通化市へ移転されるも、間もなく終戦となり、満州国も解体されることとなる。
1948年には安東省に、中華人民共和国の建国直後の 1949年には遼東省に統括された。 1954年6月に遼東省と遼西省とが合併され「遼寧省」が成立すると、その北端に位置していた通化市は吉林省側へ移籍され、今日に至るわけである。

通化市

なお、現在の通化市中心部は、特に満州国時代に開発された都市であるため、城壁都市は存在していなかったが、ここから西へ 20 kmの地点にある通化県旧市街地には、渤海国時代に開設された正州城が立地し、続く遼王朝時代まで君臨していた。しかし、これを滅ぼした金王朝時代には、無名の土地として没落するも、清末の 1877年に「通化県」役所が開設され、再び歴史の表舞台にその姿を現したわけである。

この県城は、北に山を控え、南に河川を有する、典型的な中華式の集落設計となっていた。しかし、今日ではすべての城郭遺構は撤去されてしまっており、古城時代の面影もわずかな路地名に残されるのみとなっている ー 沿河東街(かつての南面外堀跡)、府東街、府西街、河南大橋、城東郵便局など。
なお、この通化県の南西 2.5 kmの場所に、前漢時代の赤柏松城跡が残る(石碑のみ)。


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