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吉林省通化市 ~ 人口 233万人、 一人当たり GDP 40,000 元


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  臨江県城
  長白県城
  輯安県城
  柳河県城
  赤柏松古城



【 通化市の歴史 】

通化県大安鎮にある旧石器時代の洞窟遺跡では、大量の古代生物の化石や骨器など、生活用品類や人類が火を使った跡などが発見されており、この地に20,000~40,000年前の旧石器時代における、古代人類の生息があったことの証左とされている。
5000~6000年前の新石器時代においては、通化市の渾江の両岸には人類が漁業、狩猟生活を営み、部族や集落を形成していたようである。そして、それらは相互に影響し合い、徐々に華夏、粛慎、濊貊の三大民族集団へとまとめられていったと考えられている。

西周王朝時代の初期、通化一帯は粛慎族の生息域の南部分に位置した。西周の宣王の治世下、粛慎族は北へ追い払われ、代わってこの地には韓候が派遣され、濊貊族らが居住する土地となる。韓候が国を追われた後、殷(商)朝の王族一族の箕子が「箕子朝鮮」を建国し、後に、周王朝の冊封国の一つとなり、通化一帯は周王朝の領土となる。

春秋戦国時代においては、燕国の遼東郡に帰属し、秦による全国統一後も、引き続き、遼東郡の下に入る。戦国の七雄といわれた燕国が最後に滅亡した後、旧燕国の残党らは長白山の西側へと落ち延びて行き、同じく秦により滅ぼされた旧斉国や趙国からの避難民、残党勢力を吸収して、「衛氏朝鮮」を建国するに至る。現在の通化一帯はその国境地帯に位置することになった。
紀元前108年、前漢第7代皇帝の武帝により、東方遠征が実施され、衛氏朝鮮は滅亡する。中国東北部や朝鮮半島まで勢力を拡大した前漢は、遼東半島地区に玄菟郡を新設し、高句麗や上殷台、西盖馬の3県を管轄させる。現在の通化市一帯は幽州刺史部の玄菟郡上殷台県に属すこととされた。今に残る通化市江北治安山城古遺跡と通化県の赤柏松古城遺跡はこの当時のものである。

前漢王朝末期の紀元前37年、扶余族の貴族であった朱蒙(シュモウ)は卒攻を率いて玄菟郡の高句麗県を占領することに成功する。そして、高句麗王朝を建国する。その初期の王都は紇升骨城(今の遼寧省にある桓仁五女山城)とされた。
前漢王朝も末期状態であった紀元後3年、高句麗は王都を筑尉那岩城へ遷都する。後世、この渾江流域一帯は高句麗民族の初期のころの文化、文明発祥の地とされることになる。

通化市

後漢時代の32年、光武帝の治世下、高句麗は後漢王朝の玄菟郡に帰属するべく、使節を派遣してくる。こうして、一時的に通化市域一帯も後漢王朝の支配下に入ることになった。
189年、遼東太守の公孫康は遼東候として独立を宣言し、遼東郡や玄菟郡など5郡を統治した。さらに、209年、公孫康は高句麗を攻撃し、通化一帯の高句麗領をその支配下に併合することに成功している。
三国時代が確立され、220年、公孫康は魏の曹操の臣下となる誓約を交わす。しかし、度々、公孫氏は魏皇帝の命令を無視、反故にしたため、ついに238年、魏は司馬懿に軍を与えて公孫淵の討伐に向かわせる。同年内に公孫淵は捕縛され、処刑されてしまう。こうして朝鮮半島の中部に至る遼東半島一帯の5郡はすべて魏領に帰属されることになった。
その北側にあった高句麗は最初、魏国に服属していたものの、度々、反乱を起こしたため、 244年、魏の幽州刺史であった母丘儉が高句麗追討軍を率いて東征する。今の通化県江口村で戦いの火ぶたが切られ、高句麗軍を撃破した母丘儉はそのまま高句麗の王都であった丸都山城を陥落させ、占領を宣言する石碑(これは今の遼寧省博物館に保管されている)を残し、名実ともに旧高句麗領、さらにその下にあった通化市一帯を完全に魏国の領土としたわけである。
265年に魏王より権力禅譲を受けた司馬炎により西晋王朝が建国されると、 274年には平州が新設され、その下に遼東郡、玄菟郡、带方郡などが置かれた(通化市一帯は玄菟郡に帰属した)。


西晋王朝は三国統一に成功するも、太平の世を長くは維持することがかなわず、すぐに朝廷内の内紛、地方での反乱が勃発し出す。特に、華北地域では五胡十六国時代と呼ばれる、短命政権ができては崩壊するという繰り返しが300年近く続くこととなった。通化市一帯も度々、支配者(前燕、後燕など)を変えることになる。現在の柳河県にある羅通山城はこのころに築城されたものである。また、北方の高句麗は華北地域に樹立した王朝に、その都度、帰順して、この時代をやり過ごしていくことになる。
華北に北魏王朝があった425年、高句麗は徐々に領土を拡大し、その王都を平壤へ遷都する。また、長白山の北側に居住していた粛慎族の勢力も次第に強大化し、勿吉国を建国するに至る。このころより、通化市域の北側は勿吉国に、南側は高句麗の領土として分かれて支配されることになった。隋朝の時代に入っても、この体制が継続されていく。なお、勿吉国は北朝時代から続く朝貢関係を隋朝とも結んでおり、この隋朝以降からは「靺鞨」と呼称され始める。隋朝の高句麗遠征でも出兵し、協力している(この靺鞨族が後に女真族となる)。
隋、唐王朝ともに3度に及ぶ高句麗遠征を繰り返し、ついに668年、唐は新羅と連合を組んで、高句麗の滅亡に成功する。こうして旧高句麗領土は唐の支配下に入ることとなり、安東都護府に管轄されることになった。通化市一帯は河北道安東都護府哥勿州都督府の管理下に入る。

698年、粟末「靺鞨」の長であった大祚荣が、震国を建国する。713年、唐国に帰順し、大祚荣は冊封を受け、渤海郡王の称号を賜る。このときから、渤海国と称されるようになる。通化市一帯は渤海国の西京鴨緑府正州に帰属し、その正州役所が、今の通化市旧市街地に開設されることになった。通化県四棚郷三棚村で出土した金鉢は、この渤海王朝時代のものであるという。

926年、西側から急台頭した契丹国(後の遼王朝)により渤海国は滅ぼされる。その旧領は東丹国と改名され、契丹国の支配下に入った。

通化市

1017年、遼国の統治下、通化市一帯は東京道遼陽府正州の管轄下に入った。遼国は北宋からの毎年の献上金で力を蓄え、内モンゴル高原やチベット方面へも勢力を拡大し、大帝国を現出させた。しかし、1115年、中国東北部で台頭しつつあった女真族による金国勢力の南下に対抗すべく、遼は6万の軍勢で照散城(今の梅河口市山城鎮一帯)を攻撃するも、逆に遼国軍は益褪水を渡って夜襲をかけてきた金国軍に大敗し、勢いに乗った金国により、遼陽城まで攻略されてしまう。
金王朝はその後、北宋と協力して遼国を滅亡させる。以後、通化市一帯は金国下の東京路婆速府の管轄下に入ることになった。さらに、金国は北宋を滅ぼし、中国河北地方一帯まで領有するようになる。しかし、間もなくモンゴル軍の南下が始まり、1234年には金国も滅亡させられてしまう。モンゴル帝国の支配時代、通化市一帯は瀋陽路に帰属した。以後、元王朝により、高麗・女真・漢民族らは一括で統括されることとされた。 1287年には、遼陽行省が新設され、通化市一帯は遼陽行省遼陽路婆娑府の管轄下に入ることになる。

1368年正月、江南地帯を平定した朱元璋により大明国が建国され、以後、華北にあった元朝の内紛につけ入り、軍を華北へ派遣し、1370年には首都の大都をも陥落させ、モンゴル勢力を砂漠地帯へと追い帰すことに成功する。さらに北伐は続き、中国東北部へも進軍が続けられた。1377年には遼東指揮使司が設置されている。第3代皇帝の永楽帝の治世下ではさらに東方、北方への領土拡大が図られ、1409年、さらに追加で中国東北部に奴爾干都司が新設され、その下に新行政機構として衛や所が監督される仕組みが形成された。この時から、女真人は南部への移住が禁止され、奴爾干都司建州衛の監督下にあった今の通化市一帯は、女真人の主たる居住地区となる。

時は下って、明末の1616年、建州衛都僉事ヌルハチはハンを自称するようになり、後金国を建国(王都は赫図阿拉―今の遼寧省新賓県老城―に設置)する。通化地区はこの女真族国の南下、明入りへの重要拠点の一つとみなされるようになった。
1646年、三代皇帝により清国の王都は北京へと遷都され、中国東北部には盛京や吉林、黒竜江将軍が設置される。 1657年に奉天府が開設されると、通化市一帯はこの管轄下に入った。 1877年に、現在の通化県旧市街地内に行政庁が設置され、このときに「通化」へと改名されている。その後、清末の1908年には、臨江県、長白県、輯安県、柳河県へと分割され、統治機構の強化が図られた。
中華民国の建国以後、奉天東辺道に帰属され、満州国成立後は通化省の省都となっている。日中戦争末期の1945年には、一時的に満州国の首都にも指定されている。中華人民共和国の建国後の1949年、遼東省に帰属された。

通化市

なお、この通化市街区は近代以降に開発された都市であるため、城壁都市は存在していなかった。通化市中心部から西へ20kmの地点にある通化県旧市街地に、清末の1877年に行政庁が開設されたのが、この市域一帯を管轄した役所跡とされる。しかし、今日ではすべての城壁跡は撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。沿河東街(かつての南側の堀川跡)、府東街、府西街、河南大橋、城東郵便局。この城壁都市は、北に山を控え、南側は河で守られた地形であったようである。現在は河川は埋め立てられており、路地名のみ、かつて河川がそこにあったことを示すのみである。
通化県の南西2.5kmの場所に、前漢時代の赤柏松古城遺跡が残る(石碑のみ)。


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