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内モンゴル自治区通遼市 ~ 人口 317万人、 一人当たり GDP 38,000 元


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  通遼鎮城



【 通遼市の歴史 】

この地では、3000年前からの人類(東胡族と山戎族)居住の足跡が確認されている。
春秋戦国時代、もともと河北省と遼寧省の境界付近に勢力をもっていた燕国は将軍の秦開を派遣して、遼寧省一帯に居住していた東胡人を討伐し、 北部に新領土を獲得する。ここに郡県制を敷き、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東の5郡を設置すると同時に、造陽から襄平までの東西二千里にわたる「燕の長城」を完成させる。 「燕の長城」は今日でも一部保存されており、奈曼旗と庫倫旗にある長城部分は特に 保存状態がよいとされる。

通遼市

紀元前221年、秦は中国全土の統一後、全国に36郡を新設して、統治体制を整備する。現在の通遼市南側は遼東郡と遼西郡に帰属されることになり、他の地域は、引き続き、北方遊牧民族の東胡の勢力圏下に置かれた。

前漢王朝の初期、北方高原地帯から勢力を拡大してきた匈奴族の勢力は、東方の通遼市一帯にも及ぶようになる。春秋戦国時代~秦代にかけて西方に追われていた東胡族の末裔たる鮮卑族や烏桓族らは、徐々に東側へ押されつつも、 逆に漢王朝の領土を圧迫して、領土を東方に拡大してくる時期となった。
前漢第7代皇帝の武帝は、合計3回に及ぶ北方遠征を実施し、台頭中の匈奴勢力を駆逐し、内モンゴル地区の多くの部分を占領下に置くことに成功する。黄河上流域を中心に、通遼市一帯へも多くの漢族が移民を奨励され、この地域の開発が急速に進むことになる。
後漢末には、鮮卑族の長であった檀石槐が、鮮卑の各部族を統一し、部落軍事聯盟を結成する。こうして鮮卑族は、弱体化する匈奴族勢力を尻目に、モンゴル高原全体をカバーする大規模な領域を治めることとなった。

後漢末の中原での三国騒乱時代を統合した西晋王朝の治世も長くは続かず、すぐに南北朝時代の内戦の世が再来する。中原王朝の力が弱まる中で、北方の鮮卑族は力を蓄え、北魏王朝を成立させて華北全土を支配するにまで成長する。北魏の鮮卑族王室はその後、東西魏に分裂し、そして北周王朝時代も生き残り、隋時代に滅亡することになる。中原文化に巻き込まれていった鮮卑族を尻目に、北方では新たに契丹民族が勢力を振るうようになってくる。そもそも、契丹族は4世紀中葉ごろ、西拉木倫河と老哈河の流域に生息していた遊牧民族がその出自とされている。

唐王朝の初期、契丹族は部落聯盟を結成し、唐王朝に帰順することになった。唐王朝は通遼市一帯の統治を、契丹人の長を長官に任命することで任せていた。
契丹族により建国された遼王朝の時代、この地域の牧畜業は大幅に発展し、経済的にも豊かになっていく。
女真族による金王朝の時代、通遼市一帯は北京路臨潢府の管轄下に入っていた。
次に力をつけてきたモンゴル帝国は金王朝を滅ぼし、フビライ統治下の元王朝時代には、通遼市一帯は中書省大寧路の下に帰属することとされた。

明王朝はモンゴル勢力を中原から追放し、さらに、数度にわたる北伐を敢行して、北方にまだ余力をもっていたモンゴル勢の駆逐に努めた。その際、三衛と呼ばれた守備部隊の一つ扶余衛の管轄下に、通遼市も組み込まれている。
モンゴル帝国はその後も、激しい内紛が展開され、諸部族は散り散りになっていった。 1547年、モンゴル族の一部であったチャハル部族およびハルハ部族の一部が、大興安嶺山脈の東側に移動し、アムール川水系の遼河と嫩江の上流域に居住するようになる。これ以降、さらに遊牧地の南下が進み、通遼市の大部分は、さらに末端民族であったホルチン部落の主たる居住地となった。

清朝時代には、モンゴル諸部族の部落制を盟や旗制へと置き換え、1636年、これをまとめて哲里木盟を成立させた。哲里木盟は各部族の長連合といったもので、4部と10旗を管轄するものとされた。その後、モンゴル王族や貴族らに土地を与え、その管轄のために庁、府、州、県が設置され、彼らに役職が付与されていった。また、哲里木盟は長春、昌図、洮南の三府によって監督されることになる。
清時代を通じ、哲里木盟はモンゴル族、および彼らの遊牧地域を統括する重要な仕組みとなっていたわけであり、中華民国になっても継承され、北洋政府の蒙藏院によって監督されることになった。

通遼市

遊牧民族のモンゴル人らは城外に居住した一方、この地に移住してきた漢族はやはり環濠集落を形成し、定住生活の基礎となる都市を形成していたようである。その環濠集落跡こそが通遼市中心部にある旧市街であった。しかし、現在は完全に城壁も堀川も撤去されており、かつての面影もほとんど失われている。わずかな路地名のみ古を感じさせてくれるだけであった。西順路、東順路、南門小学、霍林河大街(城北側の堀川)。

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