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貴州省銅仁市 ~ 人口 428万人、 一人当たり GDP 19,000 元


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  銅仁府城(銅仁県城)



【 銅仁市の歴史 】

銅仁市の歴史は古く、新石器時代にまで遡るという。しかし、実際に史書に記述として出てくるのは、 紀元前221年に戦国時代を統一した秦王朝により、この地に黔中郡が設置されて以降である。
前後漢王朝の時代、武陵郡(郡役所は漢寿県城内に開設)に帰属され、蜀の統治下にあった際、最初の県役場が銅仁市思南県(現在の銅仁市街区から西へ90km)に設置される。後漢末の戦乱の中で、このころ武陵郡役所は臨沅城内(今の常德市武陵区和鼎城区)に移転されていた。しかし、呉魏連合軍による関羽攻めの際、呉により臨沅城は占領され、そのまま武陵郡全域が制圧されて蜀の統治は終わりを告げる。呉は領土併合後、思南県を黚陽県へと改名している。

銅仁市

唐朝の時代、万安県となり、後に常豊県へと改名される。あわせて、思州や錦州、黔州などに帰属先が度々変更されていく。宋代末~元朝初期にかけては思州に帰属し、思南宣慰司が設置されていた。

1118年に築城された思南県城の全体図。城壁は無く、木柵が巡らされていたことが分かる。 今日でも、府后街、新馬路、城北街、城南薬局などが地名で残り、かつての政治、経済の中心都市であった名残が十分に感じられる。

銅仁市

さて、ここで「銅仁」の地名の由来であるが、伝説によれば、元朝の時代、一人の漁民が河が合流する地点にあった銅崖岩の下の川底から、銅人三尊像を拾い上げる。当時、この仏像が銅人と呼ばれたことにちなみ、元朝は「銅人大小江蛮夷軍民長官司」という役所を現在の銅仁市旧市街地に開設し、思南宣慰司の管轄下とした。ここから、中国語の「人」と「仁」が同じ発音であったこともあり、銅仁の命名へとつながっていく。

明朝初期の1413年、思州と思南宣慰司が廃止され、銅仁長官司が銅仁府城(銅仁県城)内に設置される。あわせて、同列に思南府、石阡府、鳥羅府の3府も新設される。これらは同時期に新設された貴州布政使司に帰属された。 明代の1438年には鳥羅府が廃止され、その大部分の管轄地が銅仁府に併合される。この頃から、この地域の政治、経済、軍事、文化の中心都市として発展していくことになる。
銅仁市

清代初期の1657年、明の残党勢力の掃討を目指す清軍はこの銅仁城を陥落させ、同地を占領する。清朝の支配下となって以後も、銅仁一帯はそのまま明代の行政区が踏襲され、貴州省銅仁府が置かれた。時は下って、清朝滅亡後に中華民国が建国された1912年、銅仁県(役所は今の江口県にあった)が廃止されて、銅仁府に併合されることとなる(今の銅仁市旧市街地)。その後も、度重なる変更が加えられ、 2011年10月22日以降、今日のような行政区に定まっている。


銅仁市

なお、銅仁府城であるが一部に古城遺跡として城門跡などが残されているものの、今日現在、ほぼ全ての城壁や城門が撤去されてしまっている。しかし、路地名や地名には、かつての城壁都市時代の名残がそこここに見受けられた。北関村、北門賓館、北門花苑、環北路、環西路、環東路、江宗門、中南門、下南門、東門橋など。

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