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山東省威海市 ~ 人口 285万人、 一人当たり GDP 115,000 元


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  威海衛
  成山衛
  育犁県城
  不夜県城
  昌陽県城
  文登県城
  文登營遺跡
  栄成県城



【 威海市の歴史 】

威海市の歴史は長く、市内の古代遺跡の発掘調査から、既に新石器時代に人類の生息が確認されているという。

夏王朝、商(殷)王朝、周王朝時代を通じて、山東半島エリアは東方嵎夷の地と称され、莱夷族らが割拠していた。

威海市

春秋時代期、莱子国が建国されていたが(上地図)、紀元前566年11月、斉国が莱国を滅ぼすと、旧莱国領は斉国の領土に併合され、現在の威海市一帯は、その東部に位置したことから東莱と通称されるようになる。

紀元前221年、秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。
この頃、現在の威海市エリアは腄県(今の山東省煙台市福山区)の統括下にあり、当初は斉郡に、後に膠東郡に帰属された。

前漢時代、青州下の東莱郡に属する。郡役所が掖県城(今の山東省煙台市莱州市)に開設され、その下には17県城が配された。当時、現在の威海市エリア内には、不夜県(今の威海市栄成市不夜村)、昌陽県(今の威海市文登区宋村の東部)、育犁県(紀元前206年に新設。今の威海市乳山市育黎鎮城陰村の南部)の3県城が設置されていた。下地図。
また同時期に新設された観陽県(今の山東省煙台市海陽発城鎮)が、現在の威海市乳山市の一部を管轄した。下地図。

威海市

後漢時代初期の29年、不夜県と育犁県の2県が廃止され、それぞれ昌陽県と東牟県に吸収合併される。
また、東莱郡の郡役所が、掖県城(今の山東省煙台市莱州市)から黄県城(今の山東省煙台市龍口市黄城)へ移転される。下地図。

三国時代期、東莱郡を平定した曹操により、郡役所が再び掖県城へ再移転される。この時代、威海市エリアには昌陽県のみが存続していた。下地図。

威海市

西晋時代の初期、昌陽県も廃止され、長広県に編入される(長広郡に帰属)。
これに合わせて、現在の威海市の南部一帯は長広郡に帰属された(郡都は不其県城【今の青島市城陽区城陽村の北部】)。
同時期、東莱郡が東莱国(王都は掖県城【今の山東省煙台市莱州市】)へ改編されると、これに帰属する牟平県(今の山東省煙台市福山区古現)が、現在の威海市の北部一帯を統括した。
298年、長広県の一部が分離され、昌陽県(今の威海市莱陽市照旺庄鎮)が復活設置される(長広郡に帰属)。


華北地方が五胡十六国時代の戦乱期に突入すると、後趙により牟平県の一部が分離され、東牟県(今の山東省煙台市牟平区)が新設される。東牟県はそのまま東牟郡の郡都を兼ねた。以後、現在の威海市域の北部は東牟県に管轄され、南部はそのまま昌陽県下に帰属された。
続く、前燕、前秦、後燕、南燕(下地図)の諸王朝もこの行政区が踏襲される。

威海市

南朝の劉宋が山東半島を占領すると、東牟郡が廃止され、東莱郡に吸収合併される。
また同時に、東牟県も廃止され、牟平県に編入される。牟平県は西晋時代と同様に、現在の威海市エリアの北部一帯を統括することとなる。
市域の南部一帯は、引き続き、長広郡下の昌陽県に帰属された。

北魏時代の470年、青州から光州(州都は掖県城【今の山東省煙台市莱州市】)が分離・新設されると、その下に東莱郡、東牟郡、長広郡の3郡が配された。
東魏時代の539年、昌陽県の一部が分離され、観陽県(今の山東省煙台市海陽市発城鎮)が復活設置される(長広郡に帰属)。
北斉時代の556年、東牟郡が廃止され、長広郡に吸収合併される(引き続き、光州に帰属)。
568年には、牟平県と観陽県の一部が分離され、文登県が新設されると、現在の威海市全土はこの文登県の管轄下に組み込まれる。下地図。

威海市

隋代も引き続き、威海市一帯は青州長広郡(後に莱州へ、さらに東莱郡へ改称。郡都は掖県城【今の山東省煙台市莱州市】に開設)下の文登県に帰属された。上地図。

唐代の621年、東莱郡が登州(州都は文登県城)へ改編されるも、627年に廃止される。
下地図は、644年、661年、667年の3回行われた唐朝による高句麗遠征ルートを示す。

威海市

665年、文登県の西部が分離され、旧東牟県城跡(今の山東省煙台市牟平区)に牟平県が新設される。以後、清代の1735年までの1000年間、現在の威海市の南西部は牟平県に、その他は文登県に統括されることとなる。

692年、莱州下の牟平県(州都を兼務)、黄県、文登県の3県から成る登州が復活設置される。
707年、登州(742~758年のみ、東牟郡へ改編)の州役所が、牟平県城から蓬莱県城(634年に蓬莱鎮が新設され、707年に県城へ昇格。今の山東省煙台市蓬莱市)へ移転される。下地図。

北宋時代、登州(州都は蓬莱県城)は京東路(1074年に京東東路へ改称)に帰属された。文登県もそのまま登州に属した。
この頃、牟平県下で乳山寨(今の威海市乳山市乳山寨鎮)が新設される。下地図。

威海市

1128年、金軍が京東東路を占領すると、1131年に登州下の牟平県(軍役所を併設)と文登県が分離され、寧海軍(1182年に寧海州へ昇格)が新設される。
この頃、文登県下に温水鎮(今の威海市環翠区温泉湯村)、牟平県下に湯泉鎮(今の威海市乳山市湯上村)が設置される。

金代末期の1225年、モンゴル軍が京東東路一帯を占領すると、寧海州(引き続き、牟平県と文登県の2県を統括)は、新設された益都路下に帰属される。

威海市

明代初期、 牟平県が廃止され、その旧県域は登州府の直轄地に組み込まれる。
他方の文登県は、そのまま登州府(府都は蓬莱県城)下の寧海州(旧牟平県城)の下に残された。
また同時期、辛汪寨、温泉鎮、斥山鎮、乳山寨の4巡検司が新設される。
さらに1398年、倭寇の襲来に対抗すべく、威海衛、成山衛、靖海衛の3衛と寧津守御千戸所が新設される。上地図。
「威海」の地名はこの時、初めて誕生し、3方を海に囲まれた山上に築城され、山東半島の東端に位置したことから、「威震東海」より命名されたという。本格的に築城が開始されるのは、1403年に入ってからという

さらに、1427年には文登營が、1470年ごろには百尺崖、尋山、海陽の3守御千戸所が増設される。下地図。
これらの衛と所は、すべて山東都指揮使司に管轄された。

威海市

1643年、遼東半島から海路で山東省半島へ上陸した清軍により、寧海州城(牟平県城)が陥落する。以後、清朝の支配下に組み込まれ、引き続き、威海市エリア一帯は、山東布政使司登州府下の文登県と寧海州(旧牟平県城)に分かれて統括された。上地図。

1735年、成山衛の一部が分離され、栄成県(今の威海市栄成市成山衛)が新設される(登州府に帰属)。上地図。
同時に、威海衛と靖海衛の2衛が文登県の管轄下に組み込まれ、威海と靖海の2巡検司へ改編される。
一方で、有石島と塩灘の2巡検司はそのまま存続される。

威海市

1894年に日清戦争が勃発すると、北洋艦隊の母港となっていた威海衛とその前に広がる黄海の制海権を巡って、日本海軍と清軍が交戦することとなる。上地図。

大連港と旅順港を陥落させた日本軍は、清の主力海軍であった北洋艦隊を威海衛まで追い込む。 1895年1月末より、陸軍が山東半島の先端にある戌山頭の狼煙台を攻略し、そのまま栄成県城を占領した後、威海衛の市街地へ向けて西進し、東側の防衛戦線(南幇砲台)の突破に成功する。下地図。

こうして防衛ラインの一角が突破された清側は、市街地と西側の要塞群(北幇砲台)を放棄し、日本軍はそのまま無血占領するも(2月2日)、対岸の劉公島と日島に本拠地を構える清側の北洋艦隊残存部隊が頑強に抵抗し、その主力砲で陸地側の日本軍へ砲撃を加え続ける。弾頭距離が不利な陸軍は、海軍に支援を要請する。海軍は水雷艇部隊を軍港内の奥深くに侵入させ、ゲリラ戦法で清側の軍艦に近づき、魚雷を命中させる戦法に出る。 2月5日と、2月9日の2回にわたるゲリラ攻撃で、北洋艦隊は大損害を受け、2月12日、ついに北洋艦隊も降伏することとなる。
最終的に、3月下旬に一時的な休戦が合意され、翌4月に下関条約が調印される運びとなる。

威海市

戦後、清国からの賠償金支払の担保として、日本軍は威海衛に暫定駐留を続けたが、賠償金が完納されると、日本軍はすぐに撤収する(1898年5月24日)。翌25日、すぐにイギリスが新たな統治者として威海衛へ入城し、清朝から25年間の租借権を獲得することとなる。下地図。
1900年、イギリス租界内に威海衛行政長官署が新設される(英国植民地政府の直轄)。威海衛の英国駐留地区以外の中立地帯は、引き続き、文登県が統括した。

威海市 威海市

清朝が滅び、中華民国が建国されても、引き続き、イギリス租界地と文登県、栄成県が一帯を統括した(山東省膠東道に帰属)。 1928年には道制が廃止されると、文登県と栄成県は山東省に直轄される。
1930年10月、威海衛がイギリスから返還されると、威海衛行政区が設置され、国民党政府の直轄地となる。

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