BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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安徽省 蕪湖市 ~ 人口 380万人、 一人当たり GDP 105,000 元


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  【二代目】蕪湖県城(豫州城、宣城郡城)
  【初代】蕪湖県城
  上党県城(上党郡城)
  襄垣県城
  春谷県城
  繁昌県城
  陽攴県城
  襄安県城
  臨湖県城
  南陵県城
  無為州城(無為軍城)



【 蕪湖市の 歴史 】

春秋時代、現在の蕪湖市一帯は呉国に属した。越国が呉国を滅ぼし(紀元前 473年)、その越国も楚国に滅ぼされると(紀元前 306年)、最終的に楚国領に組み込まれる。紀元前 223年、楚国も秦国により滅亡させられると、その秦王朝の治世下で中央集権体制の確立が図られ、全国で郡県制が導入される。この時、新設された鄣郡が、現在の 蕪湖市一帯(この時代、「鳩兹」と呼称されていた。今の市中心部の南東約 20 kmにある水陽江南岸エリアー現在の蕪湖市鳩江区を流れる、姑渓河と青山河との合流ポイントーには、沼や池、湖などの広大な湿地帯が広がっており、天を覆うばかりの数の鳩が生息していたことに由来)を統轄した。

前漢朝第 7代皇帝・武帝の治世下の紀元前 109年、鄣郡が丹陽郡へ改称される。この時、丹陽郡は 17県を統括していた。同時に、「鳩兹」の地に県役所が開設され、蕪湖県と命名される。これは、当時、鳩兹附近の巨大湿地帯の中に、ひと際、大きな湖があり、いつしか人々は溜め池として利用するようになっていた。その湖は水深も浅く、藻がたくさん生えていたことから、蕪湖と通称されていたという。

後漢時代もこのまま踏襲され、三国時代、孫呉の支配下の 223年、蕪湖県城が鳩兹の地から、今の 市中心部(現在の九蓮塘公園辺りにあった、鶏毛山の南麓)へ移転される(引き続き、丹陽郡に帰属)。下地図。

蕪湖市

西晋時代初期の 281年、丹陽郡が分割され、宣城郡(郡都は宛陵県城 ー 現在の 安徽省宣城市 中心部)が新設される。あわせて、丹陽郡の郡役所が 建業城(今の 江蘇省南京市)へ移転される。蕪湖県は引き続き、丹陽郡に統括された。上地図。

東晋時代、華北地方で五胡十六国時代が始まり、戦火が絶えない日々が続く中、多くの流民が長江以南に避難してくる。この人口の急増に対処すべく、長江以南では急ピッチで行政区の整備が進められていく。329年、豫州が新設されると、蕪湖県城が州都を兼務し、さらに 363年、蕪湖県城が宣城郡の郡都をも兼務する。374年、蕪湖県はそのまま宣城郡に帰属するも、上党郡が分離・新設されると(山西省長治市 一帯から非難してきた流民が多く集まったことから、彼の地「上党郡」の地名がそのまま援用される)、襄垣県、定陵県、逡遒県などが次々と新設されていった(これらの県名も、山西省長治市一帯の地名がそのまま援用された)。

蕪湖市

413年、宣城郡の郡役所が 宛陵県城(現在の 安徽省宣城市 中心部)へ戻されると、上党郡が上党県へ降格される。上地図。
同時に、陽攴県(今の 蕪湖市繁昌区)が廃止され、蕪湖県へ編入されるも、さらに蕪湖県自体も廃止され、襄垣県に吸収合併される。この蕪湖県の廃止以降、襄垣県と上党県のみが淮南郡に帰属された。

東晋王朝から南朝を継承した劉宋朝時代の 432年、上党県が襄垣県に吸収合併される(そのまま淮南郡に属した)。462年、淮南郡が 宣城郡(郡役所が于湖県城へ移転される)へ吸収合併されると、襄垣県も宣城郡に属した。 2年後の 464年、淮南郡が復活設置されると、襄垣県も淮南郡側に復帰する。

隋代初期の 589年、丹陽郡と淮南郡の 2郡が廃止されると、石頭城(今の 江蘇省南京市)に蒋州が新設される。同時に、襄垣県などが廃止され、当涂県へ吸収合併されると、県役所が 姑熟の地(今の 安徽省馬鞍山市 当涂県の中心部)へ移転される。この時、旧・蕪湖県エリアも、当涂県の管轄域に組み込まれた。

唐代を通じ、現在の蕪湖市域は、一環して当涂県に属した。
五代十国時代、南唐朝の治世下の 940年ごろ、蕪湖県が復活設置され、江寧府に帰属される。以後、中華民国時代まで、「蕪湖県」は永続的に踏襲されていくこととなる。

蕪湖市

北宋時代初期の 975年、宣州が新設されると、蕪湖県はこれに属した。2年後の 977年、南平軍が太平州へ昇格される(宣州から分離・新設される)と、蕪湖県は太平州に属した。州都は、当涂県城(今の 安徽省馬鞍山市 当涂県の中心部)が兼務した。上地図。

元代の 1277年、太平州が太平路へ、1355年に太平路が太平府へ改編されるも、蕪湖県はそのまま太平府に属した。下地図。

蕪湖市

明代、清代も引き続き、蕪湖県は太平府に統括された。上地図。
上位行政区のみ、度々、改編が繰り返されるも、太平府以下の県行政区はそのまま踏襲される。清代初期の 1645年に江南布政使司に、1661年には江南省左布政使司に、1667年には安徽布政使司へと、太平府を統括する上位機構は目まぐるしく改編が繰り返された。

中華民国が建国された直後の 1912年、府州庁制が廃止されると、蕪湖県は他の県と同様に、安徽省に直轄される。明代中後期、蕪湖県エリアは染め物業が盛んとなり、中華民国時代以降は、「江南四大米市」に数えられるほどに繁栄したという。
目下、長江沿いにあって第 5位の国際交易港として君臨しており、安徽省で最大の貨物取扱高を誇る。

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