BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 無錫市 ~ 人口 655万人、 一人当たり GDP 140,000 元


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  無錫県城(無錫邑城、無錫州城)
  江陰県城(暨陽郷城、暨陽県城、江陰郡城)
  金匱県城
  泰清寺(孫権の義母・呉国太が建立した 七寺八塔の一つ)



【 無錫市の 歴史 】

無錫市の北部、長江沿いでは、5000年以上前の新石器時代の人類の集落遺跡が発掘されており、早くも漁業や狩猟採集、農耕、土器や織物などの日常生活が行われていたとされる。

殷王朝の末期、周国の太王の長子である泰伯が、その王位継承権を実弟の季歴や仲雍に譲り、自身は江南地方へ出奔してしまう。最終的に 梅里の地(今の無錫市梅村)に定住地を定め、勾呉国を建国するに至る(下地図)。今日、無錫市内にはこれを記念する泰伯殿堂が残る(皇位を放棄する謙虚さが、後世、孔子により「大徳者」として称賛されたため)。
こうした稀有ないきさつもあり、現地周辺では 3000年前から中原文化との融合が始まり、特異な江南文化の発祥の地の一つ、と指摘されることとなる。
以後、紀元前 550年代に呉王・諸樊が王都を 呉城(今の 蘇州市中心部)へ遷都するまで、梅里の地が(勾)呉国の王都となる。下地図。

無錫市

紂王を最後に殷王朝が滅亡すると、周国を周王朝にまで格上げさせた武王は、子がいなかった泰伯の勾呉国に対し、その実弟の仲雍の五世孫にあたる周章を呉君に任命し、呉国を継承させる。
また、周章の子を安陽侯に封じ、今の 無錫市恵山区陽山(安陽山ともいう)に領土を与えるなど、旧主家の殷朝の王室一族らを厚遇し、新政権の安定を目指した。

春秋戦国時代下の紀元前 473年、越国が呉国を滅ぼすと、無錫市一帯は越領に組み込まれる。
さらに紀元前 334年、その越国も楚国に滅ぼされると、最終的に楚領に併合された。

秦の始皇帝が中原の統一を加速させると、蒙武と共に楚国侵攻を命じられた王翦が、無錫邑城にまで進駐している(紀元前 224年)。最終的に 2年後の紀元前 222年、楚国が滅亡すると、秦国は会稽郡を新設し、無錫邑はここに帰属された。下地図。

無錫市

前漢朝初期の紀元前 202年、無錫邑が無錫県へ昇格されると、そのまま会稽郡に属した。なお、長江沿いの無錫市江陰市エリアには、この時代、毗陵県下の暨陽郷城が設置されていた(同じく会稽郡に帰属)。暨陽郷の名は、かつて付近にあった曁陽湖から命名されているという。

前漢朝が滅亡し、王奔により新朝が建国された 9年、有錫県へ改称されるも、後漢朝が再興された 25年、再び無錫県へ戻される。
この後漢時代も、引き続き、長江沿いには毗陵県下の暨陽郷城が継承された(呉郡に帰属)。

無錫市

三国時代には孫呉の版図下に置かれる。234年、無錫県が廃止され、新設された 毗陵典農校尉(毗陵県城に併設)の管轄域に組み込まれる(現在の 江蘇省鎮江市の一帯までを統括)。上地図。

この時代、旧無錫県の西部エリアの屯田開発が大規模に進められている。なお、典農校尉とは、後漢末に曹操が最初に考案、設立した行政機関で、屯田作業を主導し、二千石単位の農田を統括した。戦乱が相次いだ後漢末は大量の無戸籍の流民らが発生しており、曹操は彼らを統括すべく、無償で農地や農具を貸し出して、帰農させる政策を進めている。
孫呉の統治下でも同制度が積極的に導入され、各郡に典農校尉が併設され、諸県の農地生産高を管理し、この分野では郡太守と同格の職権が与えられていた。

なお、この時代、孫権の義母とされる 呉国太(『三国志演技』のみに登場)が 240年ごろに領内に七寺八塔を建立したとされており、そのうちの一つが砂山の南側の山麓に建てられた太清観と伝えられている。現在、泰清寺(今の 無錫市江陰市華士鎮)として、地元で代々守られてきた名刹となっている。

無錫市

280年に西晋朝が呉を滅ぼし、三国時代を統一すると(上地図)、翌 281年、無錫県が復活設置される。また、同時に長江沿いの暨陽郷が 暨陽県(今の無錫市江陰市)へ昇格される。
あわせて、毗陵典農校尉が廃止され、両県あわせて、毗陵郡(今の 江蘇省常州市)に帰属された。下地図。
無錫市

東晋朝から始まる南北朝時代を通じて、無錫県下では湖の治水工事や各種の水利事業が推進され、農業技術の大幅進歩とともに、商業や貿易なども活発化していった。

南朝の梁王朝の治世下の 555年、暨陽県が江陰県へ改称され、江陰県、利城県、梁豊県の 3県を統括する江陰郡の郡都に選定される。その名の由来は、江陰県城が君山の山麓部に位置し、君山の北側で長江の南側にある「陰」のエリアに位置したためとされる。こうして、今日まで続く江陰県の地名が誕生することとなった。

南北朝時代を統一した隋朝の治世時代、無錫県と江陰県は共に江南東道下の蘇州に帰属された。京杭大運河が開通すると、無錫県は運河の途上にあって、ますます興誠を極めることとなる。下地図。

無錫市

唐代には、無錫県は蘇州に、江陰県(620~626年の短期間、暨州へ昇格されていた)は常州に帰属された。
この頃、無錫県一帯の農業生産技術が飛躍的に進歩し、稲と麦の二毛作が可能となる。
太湖周辺はもともと雨の少ない乾燥した土地柄で、一帯に運河と用水路を掘削することで、池や湿地帯が広がるエリアへと大きく変貌をとげることに成功する。こうした豊かな水環境を背景に養蚕業も発達し、無錫県城内には金銀商や絹織物商、タバコ業、食料品店、米屋など多くの商家が立ち並び、活気ある商業エリアが形成されていく。

宋代、無錫県と江陰県は共に両浙路下の常州に帰属し、南宋時代に両浙路が東西に分離されると、両浙西路下の常州に属した。下地図。

無錫市

南宋時代に入ると、江陰県城内に江陰軍の 軍役所(州役所に相当)が併設される。当時、江陰軍は両浙路下の 14州 2軍体制の一角を成した。この時代、対金戦争の最前線となった江陰県城の重要性は、史上最高レベルのポジンションにあった。
1140年ごろに、江陰県下の港湾地区に市舶司の役所が開設される。この時代、市舶司が設置されたのは、沿岸部の杭州、上海、広州などの 11都市のみで、江陰県城もその一角を担うこととなる。

こうした時代背景の下、南宋朝の命運を担った名将の 岳飛、韓世忠、辛弃疾らはいずれも江陰県城に足跡を残している。
韓世忠は軍を引いて江陰軍城を守備したとき、伏兵作戦で金軍を迎え撃ち、大破したとされる(下地図)。また、砂山の山中に兵士らを駐屯させる野営陣地を建造しており、その跡地(藏軍洞)が残されているという。
無錫市

岳飛もまた一時期、江陰県城の守備に従事した。
辛弃疾は江陰県城に駐在した期間(1162年2月~1164年冬)に、公務に従事した書面が残されており、当地での政務や軍務に精力的に関わっていたことが分かっている。現在、鵝鼻嘴公園にある辛侯亭には、辛弃疾が江陰県で従事した決済書類を模した石碑が記念に残されている。

宋代、長江沿岸に位置した江陰県下では、紡績業が発達し、周庄、華士の一帯の農家では織物機が広く浸透し、江南布の出荷港として栄華を極めることとなった。現在でも、江陰県下では紡績業が盛んであり、当時からの名残とされる。

元代の 1295年、無錫県が無錫州へ昇格され、江浙行中書省下の常州路に属した。
また、長江沿いの江陰県は浙行省下の 江陰路(後に江陰州)となるも、元末の 1367年に江陰県へ降格される。

無錫市

元末の混乱期、朱元璋は江陰県城下の君山寺に一時、滞在している。
明代初期の 1368年、無錫州は再び無錫県へ降格され、中書省下の常州府の管轄下とされる。
また、同時に江陰県、宜興県、靖江県(明代初期に江陰県から分離・新設)も一緒に 常州府(武進県城。今の 江蘇省常州市)に帰属した。上地図。

この明代初期に、水軍の砲台基地である江陰衛が新設される。以後、明朝はその王朝滅亡まで沿海一帯で猛威を振るった倭寇対策に手を焼かされることとなる。
明末の 1635年、倭寇らの港湾エリアへの侵入を阻止するべく、江陰県下の大石湾と小石湾にポルトガル製の大砲をそなえた砲台 11基が配備される。

他方で、明代から清代を通じて、無錫県下の農業、手工業生産はますます拡大し、水運が盛んな江南エリアにあって、屈指の米市場や布市場として世に知られることとなる。

無錫市

明末の 1645年夏、北から清軍が攻め寄せる中(上地図)、江陰県城内では軍民が一丸となって 81日間もの籠城戦が行われ、後世、忠義の地として称えられることとなる。清軍に 75,000名もの死者を出させた功績は「江陰八十一日」として広く称えられ、最後は城内全員が殉死し、一人の投降者も出さなかったといわれる。

無錫市

清代には、江陰県城内に江蘇省学政衙署所が併設された。引き続き、江陰県下は織物産業の一大生産エリアとして君臨し、「毎日、織物商品を運ぶ何万匹もの荷馬が往来し、遠く南洋にまで輸出される」とたたえられた。
清代中葉まで、江陰県と無錫県下の農家で生産される木綿織物の年間生産高は土布 300万匹にも上り、全国の木綿布の生産量の実に 6.7%を占めたとされる。

1724年、無錫県が分割され、無錫県と金匱県の 2県に分かれる(金匱県の県役所は、そのまま無錫県城内に併設された)。両者ともに、そのまま常州府に帰属された。

無錫市

1911年に入り、いよいよ清朝廷の統治機能がマヒすると、金匱県城を拠点に 自治政府(錫金軍政)が成立し、無錫県と金匱県の両県域を統括した。しかし、同年 5月に暫定自治政府は解散し、再び清朝から官吏が派遣されてくる。

同年 10月10日の武昌蜂起に端を発する全国レベルの革命闘争により中華民国政府が成立すると(同年 11月)、翌 1912年、無錫県と金匱県が合併され、無錫県へと再統合されることとなった(蘇常道【1927年に江蘇省へ改編】に帰属)。
また日中戦争時代、長江を遡ってきた日本海軍により江陰海戦が行われている。最終的に 1937年冬、江陰県城と無錫県城はともに日本軍に占領されることになった。


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